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畠山政信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
畠山政信
時代 江戸時代前期
生誕 天正19年(1591年
死没 延宝3年1月2日1675年1月17日
別名 :休山
戒名 一景[1]
墓所 芝二本榎の広岳院[1]
官位 民部大輔[2][3][注釈 1]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 豊臣秀頼徳川家光家綱
氏族 畠山氏(尾州家)
父母 父:畠山貞政、母:貴志氏[1]
兄弟 政信宮原家政[1]
片桐且元の娘[1]
基玄義玄[1]高玄[1]能勢頼春[1]林信篤[1]
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畠山 政信(はたけやま まさのぶ)は、江戸時代前期の旗本

生涯

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天正19年(1591年)、畠山尾州家当主・畠山貞政の子として生まれる[1]

畠山氏は元々河内国紀伊国守護だったが、貞政の頃にはその地位を失っており、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州攻めでは秀吉軍に抵抗して敗れ、紀伊における有力領主としての立場も失っていた[5]

その後、紀伊で生まれた[注釈 2]政信は、豊臣秀頼の重臣・片桐且元の娘婿となり、慶長19年(1614年)10月1日に、且元が大坂城を退城する際、ともに豊臣家から離脱する[6]。豊臣家離脱後は、且元のもとで大坂の役を戦い、大坂落城後の元和元年(1615年)、徳川家康からその功を賞された[2]

寛永元年(1624年)10月になると、江戸に上って、3代将軍徳川家光に仕え、摂津国八部郡に采地300石を賜る[1]。寛永3年(1626年)に家光が上洛する際は、家光らに先立って京都に入り、寛永11年(1634年)の上洛の際も同じ任を受けた[1]

寛文4年(1664年)に致仕し、休山と号す[1]

延宝3年(1675年)1月2日に死去[1]。享年85[1]

寛文4年(1664年)に跡を継いだ子の基玄は、後に奥高家に任じられ、300石だった知行も加増を重ねて5000石にまで至った[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』の政信の項では「民部」[1]、「両畠山系図」では「民部少輔」と記される[4]
  2. ^ 政信が『寛永諸家系図伝』のために太田資宗に提出した資料の控えである『古今采輯』所収畠山氏系図に「民部大輔生国紀州ニ而御座候」とあることによる[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 寛政重修諸家譜』巻第九十八(『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年、562頁)。
  2. ^ a b 大橋重保」『寛政重修諸家譜』巻第四百八十六(『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年、545–546頁。東京大学史料編纂所編『大日本史料 第12編之15東京大学、1911年、30頁)。
  3. ^ a b 今谷明「津川本畠山系図について」『守護領国支配機構の研究』法政大学出版局〈叢書・歴史学研究〉、1986年、203–205頁。 
  4. ^ 塙保己一 編「両畠山系図」『続群書類従 巻115-116』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553646/26 
  5. ^ 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年、126頁。ISBN 4-7924-0616-1 
  6. ^ 柏木輝久『天下一の傾奇者 織田左門』宮帯出版社、2020年、210頁。ISBN 978-4-8016-0220-5 
先代
畠山貞政
河内畠山氏(尾州家)
畠山政信
次代
畠山基玄