白坂栄彦
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白坂 栄彦(しらさか えいひこ、1865年(慶応元年)9月 - 1944年(昭和19年))は、日本の教育者、文部省官僚、県官吏。
人物・経歴
[編集]熊本県蘆北郡佐敷村出身。1880年熊本県立熊本中学校に入学。1884年上京して大学予備門政治科[1]に入学し、1889年に帝国大学に入学した。帝大入学にあたっては「旧藩主の若君の教授の任」を引き受け、この家庭教師の仕事が難物であったため、大学卒業が遅れたという[2]。
1894年帝国大学法科大学政治学科[3]を卒業後、教育への興味から、同年10月文部省に入省。実業学務局勤務の視学官となる[2]。1901年岡山県に転出、内務部第三課長・県視学官を務めた。1904年、日露戦争が勃発すると、銃後の護り戦後の用意として、実科的女子教育の必要性を考え、白坂が中心となって、私立岡山実科女学校(現・就実学園)の創設発起人として名を連ねている。同年設立許可が下りると、白坂が初代校長に就任した[4]。
1905年広島県広島県第二部長に着任すると、広島県の教育の刷新に努力し、日露戦後の広島県の教育方針ともいうべき、県訓令「普通教育施設要項」を、知事の命により各郡市長に通牒している[5][6]。1909年神奈川県内務部教育課長に着任。
1913年福岡県立中学修猷館の館長(校長)に就任し、1930年までの17年間を務めた[7][8]。その後、 福岡県教育会長、帝国教育会理事などを務めている[9]。
脚注
[編集]- ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校、1941年)24頁
- ^ a b 「文部省視学官白坂榮彦君小傳」『日本之小学教師』第1巻第12号 38-40頁、国民教育社、1900年
- ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名114頁
- ^ 『就実学園八十年史』 21-23頁、就実学園、1985年
- ^ 『芸備教育』15号 4頁、広島県私立教育会、1905年
- ^ 『人物を中心とした教育郷土史』 広島編、帝国地方行政学会、1972年
- ^ 『修猷館二百年史』 165頁、修猷館二百年記念事業委員会、1985年
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)歴代総受持・館長15頁
- ^ 徳富蘇峰記念館 白坂栄彦
公職 | ||
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先代 小松倍一 福岡県立中学修猷館長 |
福岡県立中学修猷館長 1925年 - 1930年 福岡県立中学修猷館長 1913年 - 1925年 |
次代 古賀毅 |
その他の役職 | ||
先代 若木栄助 |
福岡県教育会長 1934年 - 1938年 |
次代 添田雷四郎 |