白岩氏
白岩氏(しらいわし)は、日本の氏族の一つ。著名なものとして、以下の2氏族がある。
大江姓白岩氏
[編集]大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は白岩城(現在の山形県寒河江市白岩)。
白岩氏 | |
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一文字に三つ星 | |
本姓 | 大江氏寒河江氏支流 |
家祖 | 白岩政広 |
種別 | 武家 |
出身地 | 出羽国 |
主な根拠地 | 出羽国村山郡白岩 |
著名な人物 | 白岩満教 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
白岩氏の勃興
[編集]白岩(寒河江市白岩)の地は、寒河江川上流に大江氏宗家吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分かつ要地であった。また、寒河江川は砂金を産出することが古代より知られており、上流の吉川(現:西川町吉川)出身の4代満教が下流の溝延(現:河北町溝延)に入り中流の白岩を押さえたことは、寒河江川の利権の多くを手にしたと考えられる。白岩氏の起こりは、大江時茂が南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男溝延茂信の子政広を配したことに始まる。白岩城は葉山山麓の南端、標高150mから220mの丘陵地に位置し、城域東西600m、南北450mの方形の区域に5つの楯を有する山城であった。北側東側には実沢川が流れ天然の要害であり、南側に3つの虎口を有していた。また、古代より朝廷や摂関家より保護を受けた慈恩寺は、田沢川・実沢川をはさんだ指呼の間にある。
領主権の拡大
[編集]4代満教は溝延氏から入る[1]が、この頃になると白岩氏は領主権を拡大し、応仁2年(1468年)寒河江氏の干渉なしに陸奥国分寺領を本拠とする国分河内守に渡置状を発給し、文明10年(1478年)白岩氏の菩提寺として洞興寺を建立した。また文明11年(1479年)、文明12年(1480年)に伊達氏の侵攻を受けた際(菖蒲沼の戦い)、寒河江氏と左沢氏の諍いを仲裁し、慈恩寺へ誓詞を納めたという[2]。1506年頃の最上義定の進攻を寒河江氏などと共に防いでいる。さらに、永正13年(1516年)最上氏・伊達氏の争いでは和睦の仲介をしたという。永正9年(1512年)庄内で武藤氏と砂越氏の戦いがあり、永正15年(1518年)義定は勝者の進出を想定して寒河江まで出陣する。この時、5代満広は義定に従い忠節を尽くした[3]。
戦国時代
[編集]永禄年間(1558年~1570年)6代宗広のころには寒河江氏・溝延氏とともに慈恩寺の旦那の一人にまで成長している。また、六十里越を扼する立地から、寒河江氏と土佐林氏ら庄内地方の領主の取次を行っている[4] その後8代白岩広教は最上義守の娘を娶り最上氏と縁戚関係を結んだ[5]。天正最上の乱では寒河江氏が最上義光に付いたのに対し、白岩氏・左沢氏・溝延氏は伊達輝宗・最上義守に付き、三氏は寒河江氏の籠る寒河江城を白鳥長久・天童氏などと共に攻め、本丸を残して破壊してしまう。天正10年(1582年)の安東愛季への『最上義光書状』によれば、真室川で武藤氏との争いの際、白岩氏が武藤氏との婚姻関係を理由に謀反を起こしたため白岩へ軍を向け隷属させ、鮭延氏への救援が遅れたという[6][7]。後に最上義光の甥である松根光広を婿養子とした。
江戸時代
[編集]「最上義光分限帳」には500石取りの白岩主膳の名が見えるが[8]、松根光広が最上氏の内訌で配流され最上氏もまた改易となると、一族の白岩守広は二本松藩丹羽氏へ仕えた[9]。
系図
[編集]『安中坊系譜』[10]
上総介 大江時茂 | 式部少輔 大江茂信(溝延氏) | 寒河江時氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備前守家広 (出羽吉川氏) | 備前守 元家 | 備前守 教広 | 弾正少弼 伊予守頼元 | 頼俊 (千法師) | 兵部少輔 政周 | 式部少輔 広政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尊広(溝延氏) | 孝満 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
白岩政広 (三郎) | 明代 (孫八) | 広茂 (孫太郎) | 備前守 満教 | 備前守 満広 | 宗広 (八郎四郎) | 広隆 (八郎四郎) | 広教 | 松根光広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弾正忠 元時(左沢氏) | 左沢氏政 | 最上義守 | 厳松院 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
荻袋冬政 (荻袋氏) | 宮内少輔 満政 | 最上義光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大蔵少輔 寒河江時氏 | 寒河江氏 | 最上義保 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平姓白岩氏
[編集]白岩氏は新庄藩戸沢家で安永年間に編纂された『戸沢藩系図書』における家臣団の内訳で、戸沢氏のかつての盟主・盟友であった国人領主の末裔として楢岡氏、小野寺氏(山内氏)、本堂氏と共に御客分之衆と称されている。
白岩城は菅江真澄の『月の出羽路仙北郡』によれば、前九年の役の折に宮藤氏が拠点としたのが始まりという。後の鎌倉時代に平姓を称した下田氏の領するところとなったとする。下田(白岩)氏の家伝では代々秋田城介に任ぜられ、後三年の役で下田重康が戦功を挙げたとされる。その後、年代は定かではないが下田盛国が白岩城に居住したという。
南北朝時代以降に仙北郡に勢力を伸ばした戸沢氏と抗争したが、下田盛忠が戸沢氏と和し、戸沢久盛の室は盛忠の娘であった(戸沢寿盛の母)。以後は戸沢氏の宿老格の盟友となっていく。
享禄2年(1529年)には戸沢氏の内紛で、まだ幼い戸沢道盛から叔父の戸沢忠盛が家督を奪取しようとしたが、外戚の楢岡氏、六郷氏、本堂氏らの国人衆と下田氏も結束して圧力をかけ、天文元年(1532年)に忠盛が淀川城に退去することで決着させている。天文10年(1541年)からの小野寺氏の仙北攻略では、楢岡、六郷、本堂氏らと戸沢氏を救援している。
天正年間には天正14年(1586年)の阿気野の合戦で小野寺義道と、天正15年(1587年)には唐松野の合戦で安東愛季を小野寺・戸沢連合で、それぞれ戸沢盛安の配下として参戦した。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置により戸沢三十五城と呼ばれた城砦が廃城となり、その一つとして白岩城も破却された。天正19年(1591年)に白岩(下田)盛正が大坂に上ったが現地で死去したという。
白岩盛家は慶長7年(1602年)の戸沢氏の常州松岡藩への転封に家臣として付き従い、元和8年(1622年)の新庄への転封以降も重臣として続いた。
脚注
[編集]- ^ 元々は出羽吉川氏元家の二男
- ^ 『寒河江市史 上巻』pp.688「松蔵寺幹縁疏」
- ^ 「天文本大江系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』
- ^ 『寒河江市史 上巻』p.p.755、武田喜八郎所蔵「曽根家文書」
- ^ 『悲劇の回り舞台 最上一族の事件簿』p.154-156
- ^ この時の当主は白岩八郎広隆。この他天正五年(1577年)「白岩麓不動堂棟札銘」に大御本願として名が見える。
- ^ 寒河江市(1994,pp.748-749)
- ^ 『最上義光分限帳』p.25
- ^ 『人物叢書 最上義光』p.253
- ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.99-101
参考文献
[編集]- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001
- 小林隆 『悲劇の回り舞台 最上一族の事件簿』荘内日報社、1993
- 伊藤清郎『人物叢書 最上義光』吉川弘文館 2016年
- 新庄市教育委員会 『羽州新庄藩の家臣団 新庄市史編集資料集別冊』、1996
- 新庄市教育委員会 『新庄市史 第2巻 近世上』、2002
- 東京大学史料編纂所所蔵史料目録データベース