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白川一雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

白川 一雄(しらかわ かずお、1898年明治31年)3月25日[1][2] - 1957年昭和32年)5月14日[3])は、大正末から昭和期の実業家政治家参議院議員(1期)。

経歴

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香川県[1][3][4]、のちの丸亀市[5]で、白川友一の二男として生まれる[1][4]第四高等学校を経て[4][5]、1924年(大正13年[注釈 1]東京帝国大学法学部法律学科を卒業した[3]

父の事業に携わり白川保善社専務取締役を経て[1][3]、1930年(昭和5)同社長に就任[1][3][5]。1931年(昭和6年)12月、名古屋市の三引陶器(株)の経営再建に携わり業績を回復し、1932年(昭和7年)12月、社名を白川製陶に改称して社長に就任[1][3][6]日本興業銀行からの要請で、合板発明家の浅野吉次郎が創業した名古屋合板(株)の経営を1932年(昭和7年)7月から引き継ぎ社長に就任した[1][3][7]

満州昭和製鋼所の系列会社、鞍山鋼材(株)取締役に就任し1939年(昭和14)満州に赴任[1][3][8]。その他、満洲栗本鉄工専務、日本ベニヤ板工業組合理事長なども務めた[1][3]。1940年(昭和15年)日華合弁井陘煤礦有限公司の日本側代表に就任[3]。1941年(昭和16年)徴用され軍管理開灤礦務総局最高監督官、総経理となり終戦を迎えた[1][3][5]

戦後、戦犯容疑者となったが不起訴となり[5]、帰国後、富士重工業(現SUBARU)顧問、下津井電鉄取締役、滝川セルロイド会長などを務めた[3]

1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙香川県地方区から無所属で出馬して当選し[9]、参議院議員に1期在任した[3]日本民主党を経て自由民主党に入党し同党政務調査会副会長、参議院商工委員会委員、同決算委員会委員などを務めた[10]。また、原子力政策の推進に尽力した[11]。1957年5月、急性肝炎のため議員在任中に死去した[9][12]。死没日をもって勲四等瑞宝章追贈、正五位に叙される[13]。墓所は青山霊園(1イ4-26)。

編著

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※父・白川友一の関係裁判記録。

  • 『麻酔剤取締規則違反並贈収賄被告事件公判速記 : 昭和六年大連地方法院第一審』白川一雄、1931年。
  • 『麻酔剤取締規則違反被告事件第二審公判速記 : 昭和七年』白川一雄、1932年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』支那64頁、『中京現代人物評伝 2』304頁では大正12年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』支那64頁。
  2. ^ 『大衆人事録』第19版、東京篇、帝国秘密探偵社、417頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』329-330頁。
  4. ^ a b c 『中京現代人物評伝 2』304頁。
  5. ^ a b c d e 『参議院追悼演説集』128頁。
  6. ^ 『中京現代人物評伝 2』305-306頁。
  7. ^ 『中京現代人物評伝 2』306-307頁。
  8. ^ 『中京現代人物評伝 2』307頁。
  9. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』511頁。
  10. ^ 『参議院追悼演説集』128-129頁。
  11. ^ 『参議院追悼演説集』129頁。
  12. ^ 『参議院追悼演説集』127頁。
  13. ^ 『官報』第9115号387頁 昭和32年5月16日号

参考文献

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  • 早川北汀『中京現代人物評伝 2』早川文書事務所、1934年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
  • 『大衆人事録』第19版、東京篇、帝国秘密探偵社、1956年。
  • 上條勝久他編『参議院追悼演説集』参議院議員有志の会、1985年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。