相内 (五所川原市)
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相内 | |
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座標 (旧相内集会所跡地):北緯41度3分15.5秒 東経140度21分9.5秒 / 北緯41.054306度 東経140.352639度座標: 北緯41度3分15.5秒 東経140度21分9.5秒 / 北緯41.054306度 東経140.352639度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 青森県 |
市町村 | 五所川原市 |
人口 (2020年10月1日現在)[1] | |
• 合計 | 684人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
037-0401[2] |
市外局番 | 0173[3] |
ナンバープレート | 青森 |
相内(あいうち)は青森県五所川原市の大字。
平成の大合併以前は市浦村役場が置かれるなど、市浦村の行政の中心地であった。
地理
[編集]津軽半島の北西部、十三湖の北岸にあり、相内川が山王川(山王坊川)・桂川・太田川を合流して形成した三角州の西側丘陵上に集落がある。
地名
[編集]「相内」の由来は確かではないが、「鮎内川」が転じて「相内川」となったとする説が有力であるという[4]。ほかに、「人が多い沢」という意味のアイヌ語説や、「東日流外三郡誌」の「唐川柵・福島柵の相内なるの意にて相内と称するが真なり」とする説がある。
小字について、相内に実取(みとり)・露草(つゆくさ)・赤坂(あかさか)・吉野(よしの)・岩井(いわい)が、板割沢に桂川(かつらがわ)がある[4]。
歴史
[編集]遺跡
[編集]- 岩井遺跡(字岩井)は、大沼の東側半分から東南の二ツ沼に達する広範囲にわたり19個の竪穴が確認。青磁・天聖元宝(宋銭)・石鏃・刀子残片など出土。
- 笹畑貝塚(字岩井)とオセドウ貝塚(字露草)は縄文前・中期であるが、後者からは大正12年に1体の人骨が発見された。
- 露草遺跡(字露草)は須恵器を出土。
- 蛇石遺跡(字実取)は縄文時代の竪穴群で縄文土器・土師器を出土。
- 福島城跡遺跡(字実取)は十三湖岸の鰊崎にあり、32個の竪穴群で平安後期頃と推定され、土師器・土錘・鉄製刀子・鞴口など出土。
江戸時代
[編集]弘前藩領、津軽郡田舎庄(寛文4年まで田舎郡)に属する相打村と板割沢村であった。
元禄3年金木組に属し、村位は下。
村高は以下の通り。
- 正保高帳 - 245石
- 寛文高辻帳 - 326石
- 貞享4年検地水帳 - 251石
- 寛保高辻帳 - 326石
- 天保郷帳 - 266石
- 旧高旧領 - 282石
行政区画の変遷
[編集]- 明治4年7月14日 - 弘前県
- 明治4年9月23日 - 青森県
- 1876年(明治9年) - 相内村が板割沢村を合併する[5]。
- 1878年(明治11年) - 北津軽郡に所属
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、相内村と太田村が合併して相内村となる[5]。従来の相内村域は相内村大字相内となる。
- 1955年(昭和30年) - 相内村、十三村、脇元村が合併して市浦村となる[5]。相内村大字相内は市浦村大字相内となる。
- 2005年(平成17年) - 市浦村、五所川原市、金木町が合併して五所川原市となる。市浦村大字相内は五所川原市相内となる。
戸数・人口
[編集]- 明治初年 - 戸数84戸
- 明治12年 - 戸数110戸、人口634人
教育
[編集]交通
[編集]道路
[編集]物産
[編集]米・檜・薪・炭
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 榊原滋高「第四章 旧市浦村の地名」『五所川原市の地名』五所川原市、2015年2月25日、201–235頁 。2023年4月25日閲覧。
- 「青森県」『郵便番号簿』(PDF) 2022年度版、日本郵便、2022年11月、32–38頁 。2023年4月25日閲覧。