相良頼福
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相良頼福像(相良神社蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 慶安4年(1651年)[1] |
死没 | 享保5年3月5日(1720年4月12日) |
改名 | 万満(幼名)、長房→頼福、梁誠/梁聖(法名) |
別名 | 長房、通称:左兵衛、采女 |
戒名 | 廣巖院殿梁聖大郭 |
墓所 | 願成寺(熊本県人吉市) |
官位 | 采女正、従五位下、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣 |
藩 | 肥後人吉藩主 |
氏族 | 相良氏 |
父母 |
父:相良長秀、母:鎌田六左衛門の娘 養父:相良頼喬 |
兄弟 | 於亀(相良頼喬室)、於閑(万江長矩室)、庄次郎、頼福、於辰(万江長矩の養女、米良則信室) |
妻 |
正室:於豊(養心院、板倉重種の養女、板倉重矩の娘) 継室:於積(相良頼寛の娘) 側室:渋谷氏の女、西氏の女 |
子 | 於満(片岡正満室)、長興、於長、武慶、於倉、栄長、岩次郎、長在、於松、長浩、数馬 |
相良 頼福(さがら よりとみ)は、肥後国人吉藩の第4代藩主。相良氏第23代当主。
生涯
[編集]慶安4年(1651年)[1]、第2代藩主相良頼寛の弟・相良長秀 (相良頼房の次男) の次男として生まれる。初名は長房。
元禄元年(1688年)、第3代藩主頼喬(頼福の従兄)が正室の於亀(頼福の姉妹)の間にもうけた頼泰、継室の月仙院との間にもうけた頼真が相次いで早世したため、元禄3年(1690年)4月に頼喬の養子となった。同年7月に将軍徳川綱吉に拝謁し、従五位下・志摩守に叙任される。
元禄16年(1703年)4月、頼喬の死去により家督を継ぐ。
宝永2年(1705年)、前年の大水害を受けて、頼福は上野国利根川、武蔵国荒川で改修普請を命じられ、同役の佐竹義格(出羽久保田藩)、松平頼昌(松平大膳家[2])、松平近朝(出雲広瀬藩)と共に任にあたり、この功で時服十領を賜る。
藩政においても水害の対策に追われており、財政は厳しかったが、宝永7年(1710年)4月より五木村逆瀬川赤岩谷の銅山の採掘を開始した。
正徳2年(1712年)9月16日、病気を理由に長男の長興に家督を譲り、幕府の許可を得て隠居。正徳4年(1714年)5月には剃髪して梁誠と号した。
享保5年(1720年)3月5日に死去した。享年70。
系譜
[編集]- 父母
- 兄弟姉妹
- 妻子
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、708-709頁 。
- 熊本県教育会球磨郡教育支会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 相良頼福」『球磨郡誌』熊本県教育会球磨郡教育支会、1941年 。