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相良頼福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
相良頼福
相良頼福像(相良神社蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安4年(1651年[1]
死没 享保5年3月5日1720年4月12日
改名 万満(幼名)、長房→頼福、梁誠/梁聖(法名)
別名 長房、通称:左兵衛、采女
戒名 廣巖院殿梁聖大郭
墓所 願成寺(熊本県人吉市
官位 采女正、従五位下志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣
肥後人吉藩
氏族 相良氏
父母 父:相良長秀、母:鎌田六左衛門の娘
養父:相良頼喬
兄弟 於亀(相良頼喬室)、於閑(万江長矩室)、庄次郎、頼福、於辰(万江長矩の養女、米良則信室)
正室:於豊(養心院、板倉重種の養女、板倉重矩の娘)
継室:於積相良頼寛の娘)
側室:渋谷氏の女、西氏の女
於満(片岡正満室)、長興、於長、武慶、於倉、栄長、岩次郎、長在、於松、長浩、数馬
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相良 頼福(さがら よりとみ)は、肥後国人吉藩の第4代藩主。相良氏第23代当主。

生涯

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慶安4年(1651年)[1]、第2代藩主相良頼寛の弟・相良長秀 (相良頼房の次男) の次男として生まれる。初名は長房。

元禄元年(1688年)、第3代藩主頼喬(頼福の従兄)が正室の於亀(頼福の姉妹)の間にもうけた頼泰、継室の月仙院との間にもうけた頼真が相次いで早世したため、元禄3年(1690年)4月に頼喬の養子となった。同年7月に将軍徳川綱吉に拝謁し、従五位下・志摩守に叙任される。

元禄16年(1703年)4月、頼喬の死去により家督を継ぐ。

宝永2年(1705年)、前年の大水害を受けて、頼福は上野国利根川武蔵国荒川で改修普請を命じられ、同役の佐竹義格(出羽久保田藩)、松平頼昌松平大膳家[2])、松平近朝(出雲広瀬藩)と共に任にあたり、この功で時服十領を賜る。

藩政においても水害の対策に追われており、財政は厳しかったが、宝永7年(1710年)4月より五木村逆瀬川赤岩谷の銅山の採掘を開始した。

正徳2年(1712年)9月16日、病気を理由に長男の長興に家督を譲り、幕府の許可を得て隠居。正徳4年(1714年)5月には剃髪して梁誠と号した。

享保5年(1720年)3月5日に死去した。享年70。

系譜

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父母
兄弟姉妹
妻子

脚注

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  1. ^ a b 異説として慶安2年3月14日1649年4月25日
  2. ^ 水戸藩分家

参考文献

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