真田幸憲
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真田 幸憲 | |
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誕生 |
1875年1月4日 秋田県 |
死没 | 1950年12月26日(75歳没) |
職業 | 教育者、教育学者 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京師範学校文科 |
代表作 |
『分団教授原義』(1918年) 『新時代の教育』(1924年) |
配偶者 | フテ |
子供 | 幸和(次男)、幸雄(三男・千草家養子)、幸張(四男・藤本静夫養子)、幸良(五男) |
親族 | 佐藤梅軒(祖父)、佐藤憲綱(実父) |
真田 幸憲(さなだ ゆきのり、1875年(明治8年)1月4日[1] - 1950年(昭和25年)12月26日)は、日本の教育者。
経歴
[編集]秋田県出身。佐藤憲綱の二男として生まれ、真田家に入った[1]。秋田県尋常師範学校を経て、1901年(明治34年)に東京高等師範学校を卒業した[1]。秋田県立横手中学校教諭、秋田県師範学校教諭を経て、1905年(明治38年)に広島高等師範学校教諭・訓導となった[1]。1910年(明治43年)、同教授となり、奈良女子高等師範学校教授を兼ね、翌年からは奈良女子高等師範学校専任となった[1]。1919年(大正8年)から2年間欧米諸国に留学[2]。帰国後は奈良女子高等師範学校附属高等女学校主事も兼ねた[2]。
栄典
[編集]著作
[編集]- 著書
- 『小学 修身教授法』 金港堂書籍、1902年8月
- 『近世教育の母 コメニウス』 金港堂書籍、1904年8月
- 『小学 農業科教授法』 三光堂、1904年9月
- 『修身科教授法』 同文館〈六学年小学校各科教授全書〉、1908年5月
- 『各科教授の重要問題 教授法真髄』 同文館、1909年4月
- 『国民教育の本領』 目黒書店、1912年11月
- 『学校管理法提要』 目黒書店、1914年1月
- 『分団教授原義』 目黒書店、1918年3月
- 『農村教育の方針及施設』 目黒書店、1919年3月
- 『私の西洋見物』 目黒書店、1922年5月
- 『続私の西洋見物』 目黒書店、1922年12月
- 『西洋見物 お土産話』 目黒書店、1922年5月
- 『新時代の教育』 目黒書店、1924年9月
- 『公民教育資料』 目黒書店、1927年1月
- 『女学校用 新法制経済』 目黒書店、1927年9月
- 『米国の学校課外教育』 南光社、1928年10月
- 『実際教育主要問題の解決』 南光社、1929年9月
- 『最新公民教育・公民科教授の方法』 目黒書店、1932年9月
- 『農村の郷土・労作・公民教育』 東洋図書、1936年1月
- 『ハイスクール研究 : 米国教育制度の実際』 牧書房〈新教育叢書〉、1949年6月
- 訳書
- 『外国の読本から』 三国久装絵、目黒書店、1923年8月
脚注
[編集]- ^ a b c d e 人事興信録 1918.
- ^ a b 日本現代教育学大系 第6巻 1927, pp. 110.
- ^ 『官報』第8582号「叙任及辞令」1912年2月1日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 大日本学術協会編『日本現代教育学大系 第6巻』モナス、1927年。
関連文献
[編集]- 楠本恭之 「真田幸憲にみる個としての児童理解」(『広島大学教育学部紀要』第1部第46号、1998年3月、NAID 40005018828)
公職 | ||
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先代 小川正行 |
奈良女子高等師範学校附属高等女学校主事 1923年 - 1943年 |
次代 主事事務取扱 日田権一 |
先代 (新設) |
奈良女子高等師範学校附属実科高等女学校主事 1916年 - 1919年 |
次代 木下竹次 |
先代 (新設) |
奈良女子高等師範学校附属小学校主事 1911年 - 1919年 |
次代 木下竹次 |