日田権一
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誕生 |
1877年12月27日 山口県厚狭郡東須恵村(現・宇部市) |
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死没 | 1966年12月25日(88歳没) |
職業 | 教育者、官吏 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京高等師範学校専攻科 |
代表作 | 『人格観的教育思潮の進展』(1928年) |
配偶者 | サツキ |
子供 | 寛(養子・日田熊之進三男) |
日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月27日[1] - 1966年(昭和41年)12月25日)は、日本の教育者、文部官僚。
経歴
[編集]山口県厚狭郡厚南村(現在の宇部市)出身[1]。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した[2]。京都府師範学校教諭・附属小学校主事、東京府女子師範学校教諭を務めた[2]。1920年(大正9年)、東京高等師範学校修身教育専攻科を修了[2][3]。その後、東京高等師範学校教授・附属小学校主事を務め、1928年(昭和3年)にアメリカ合衆国に留学した[4]。1934年(昭和9年)より文部事務官・督学官となり、宗教局・教育調査部勤務、教育調査審議課長を歴任した[4]。1938年(昭和13年)から奈良女子高等師範学校校長を務めた[1]。
著作
[編集]- 著書
- 『統合 教育教科書 教育学』 島田民治ほか共著、松邑三松堂、1914年10月
- 『統合 教育教科書 心理学』 島田民治ほか共著、松邑三松堂、1914年10月
- 『統合 教育教科書 論理学』 島田民治ほか共著、松邑三松堂、1914年10月
- 『統合 教育教科書 各科教授法』 島田民治ほか共著、松邑三松堂、1914年10月
- 『統合 教育教科書 学校管理法』 島田民治ほか共著、松邑三松堂、1914年10月
- 『統合 教育教科書 近世教育史』 島田民治ほか共著、松邑三松堂、1914年10月
- 『女学校用 新教育学』 北沢種一共著、松邑三松堂、1915年10月
- 『最近教育思潮批判』 京畿道教育会、1927年
- 『人格観的教育思潮の進展』 昭和出版社、1928年7月
- 『最近欧米教育の趨勢』 兵庫県教育会、1931年4月
- 『現代教育思潮と農業教育』 成美堂書店〈農業教育パンフレツト〉、1934年11月
- 『学校教育の実際と学校選択の問題』 山本猛共著、叢文閣〈児童教育講座〉、1936年1月
- 『休暇と学生』 社会教育協会〈社会教育パンフレット〉、1936年7月
- 訳書
脚注
[編集]- ^ a b c 大衆人事録 1943.
- ^ a b c 日本現代教育学大系 第11巻 pp.203-204 1928.
- ^ 人事興信録 1928.
- ^ a b 人事興信録 1939.
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。
- 大日本学術協会編『日本現代教育学大系 第12巻』モナス、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。
関連文献
[編集]- 山口大学図書館教育学部分館編 『山口大学教育学部日田文庫目録』 山口大学附属図書館教育学部分館、1962年11月)
- 衞藤吉則 「日田権一の文化教育学」(『産業文化研究所所報』第12号、下関市立大学附属産業文化研究所、2002年12月、NAID 40005612877)
- 「日田権一の文化教育学(2)」(『下関市立大学論集』第46巻第3号、2003年1月、NAID 40005763600)
公職 | ||
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先代 主事 真田幸憲 |
奈良女子高等師範学校附属高等女学校主事事務取扱 1943年 |
次代 主事 近池義隆 |
先代 主事 森川正雄 |
奈良女子高等師範学校附属幼稚園主事事務取扱 1939年 - 1941年 |
次代 主事 小川正通 |
先代 佐々木秀一 |
東京高等師範学校附属小学校主事 1924年 - 1927年 |
次代 佐々木秀一 |