コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

矢吹璋雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矢吹 璋雲
(やぶき しょううん)
矢吹 璋雲
生誕 嘉永5年7月5日
太陽暦1852年8月19日
岡山県総社市
死没 昭和2年9月21日 75歳没
愛知県名古屋市
墓地 総社市金井戸
名古屋市千種区
国籍 日本
出身校 天眞舎
著名な実績 日本画
流派 四条派・円山派
民族 大和民族
影響を受けた
芸術家
三好雲仙
奥村石蘭
川端玉章
影響を与えた
芸術家
国府清山
小笠原華文
天眞舎 明治35年頃

矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ暦1852年8月19日) - 昭和2年(1927年9月21日)は、日本画家・教育者。

人物

[編集]

 1852年、良吉の三男として備中国賀陽郡服部村(現岡山県総社市)金井戸に生まれた。本名は熊治(くまじ)。別号に紫竹園がある。

 矢吹家は屋号を「天満屋」と称し、この地方では家柄が良く名家であったが、故あって長男竹次郎は分家して、明治22年(1889年)8月18日に熊治が家督を相続し、尾張藩士族、西村竹八郎の二女たきを娶った。

 若い頃から画を好み、三好雲仙に学び雲岳と号して、同門の中島雲哉らと親しく交わった。

 後年、子息と共に愛知県名古屋市に移住。そこで、奥村石蘭に師事し四条派を学ぶ。

 石蘭の死後、明治31年(1898年)、東京にて川端玉章の画塾・天眞舎に入り円山派を学ぶ。

 同37年(1904年)4月、愛知縣意匠圖案調製所を経て、愛知県名古屋高等女学校(現名古屋市立菊里高等学校)、愛知常磐高等女學校(現中部大学第一高等学校)の美術教師となり、先師、石蘭・玉章に倣い雑誌等に記事を著わし名古屋の美術教育会に尽くした。

 教師を辞した後は、名を璋雲と改め、大正5年(1916年)画塾、璋雲畫會を主催する。

 名古屋に定住してから後も、郷里の画家の指導や世話を行った。画業のほか篆刻音楽とを好み、その作風は四条と円山との両派を折衷し、花鳥山水を得意とした。

 昭和2年(1927年)に死去。法名は璋雲院秀芳日光居士。墓所は、総社市金井戸と名古屋市千種区にある。

門下

[編集]

交流のあった人物

[編集]
  • 川端玉雪
  • 江村隆章
  • 大橋万峰
  • 水野耕雨
  • 服部雲仙
  • 柳田樵谷
  • 林石華
  • 近藤雪竹
  • 北方心泉

作風

[編集]

この頃の中京画壇は東京と京阪の間にあって双方の影響を受けていた。 璋雲も例外ではなく活動拠点を名古屋にしたため強い流派意識は感じられず、自分の気の向くままに、あるいは師匠、先輩画家の指導・忠告に従って、自由に画風を選択することとなり結果折衷様式になっていった。

参考文献

[編集]