矢吹省三
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矢吹省三 やぶき しょうぞう やぶき せいぞう | |
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生年月日 | 1883年7月23日 |
出生地 | 日本 東京府 |
没年月日 | 1950年12月27日(67歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科卒業 |
前職 | 実業家 |
所属政党 | 公正会 |
称号 | 正五位 |
配偶者 |
矢吹三千子 矢吹ヒサ 矢吹清子 |
親族 | 義父・川淵龍起(広島市長) |
在任期間 | 1918年7月10日 - 1946年6月19日 |
矢吹 省三(やぶき しょうぞう[1][2] / せいぞう[3]、1883年(明治16年)7月23日 - 1950年(昭和25年)12月27日[1][3])は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。
経歴
[編集]東京府出身[3]。旧幕臣・陸軍中将、矢吹秀一の三男として生まれる[1]。旧制第一高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[3][4]。父の死去に伴い1910年(明治43年)1月19日、男爵を襲爵[5]。
横浜正金銀行書記、富士生命保険 (株) 取締役、東京タクシー自動車 (株) 取締役、東京貿易 (株) 社長などを務めた[3]。
1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[6]公正会に属して活動した[3]。加藤高明内閣・第2次若槻内閣の外務政務次官、濱口内閣の海軍政務次官、濱口内閣の大蔵政務次官、預金部資金運用委員会委員、議員制度調査会委員、議員制度審議会委員、鉄道会議臨時議員などを歴任[3]。1946年(昭和21年)6月19日に貴族院議員を辞職した[7]。その後、公職追放となった[8]。
栄典
[編集]家族
[編集]- 父・矢吹秀一[10]
- 妻・三千子(1886-1948) - 伯爵東久世通禧娘[10] 1920年に離婚[11]
- 妻・ヒサ(1893-1927) - 市島謙吉二女[11]
- 妻・清子(1896年生) - 川淵龍起三女[12]
- 長男・秀武(1909年生)の妻・章は武富敏彦の長女、武富時敏・安達峰一郎の孫[12]
脚注
[編集]- ^ a b c 『日本人名大辞典』1950頁。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、763頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』87頁。
- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』641頁。
- ^ 『官報』第7970号、明治43年1月20日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、27頁。
- ^ 『官報』第5838号、昭和21年7月2日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿722頁。公職追放の該当事項は「海軍政務次官」。
- ^ 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。
- ^ a b 矢吹省三『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p674
- ^ a b 『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』矢吹省三
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
日本の爵位 | ||
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先代 矢吹秀一 |
男爵 矢吹(秀一)家第2代 1910年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |