矢木亮太郎
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矢木 亮太郎 | |
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生誕 |
1871年11月24日 日本 石川県 |
死没 | 1948年8月3日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1892年 - 1915年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 第二中外印刷、中外印刷各社長 |
墓所 | 多磨霊園[1] |
矢木 亮太郎(やぎ りょうたろう、1871年11月24日〈明治4年10月12日[2]〉 - 1948年〈昭和23年〉8月3日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、功級は正五位勲三等功四級[3][4]。
経歴
[編集]石川県金沢市に於いて[2][3]、旧加賀藩士矢木新治の長男として生まれる[5]。幼少にして志を立て、単身で上京。陸軍幼年学校に入学。1892年(明治25年)陸軍士官学校第3期卒業[2][3]。1900年(明治33年)陸軍大学校第14期卒業[2][3]。
日清戦争・日露戦争に出征。1910年(明治43年)10月に歩兵第43連隊長を経て、翌月、陸軍歩兵大佐に昇進[2][3]。その後、1914年(大正3年)1月に歩兵第37連隊長を経て、1915年(大正4年)8月に陸軍少将に昇進と同時に予備役に編入した[2][3]。
退役後は、加越能育英社の幹部として郷土に尽くし、財団法人帝国飛行協会の役員として民間飛行の発展に尽くした。この他第二中外印刷、中外印刷各社長などを歴任した[5]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年 。