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矢部吉禎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矢部 吉禎やべ よしただ
生誕 1876年3月3日
日本の旗 日本東京府
死没 (1931-08-23) 1931年8月23日(55歳没)
日本の旗 日本東京市
居住 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
研究機関 東京帝國大學理科大學
清國 京師大學堂
東京女子高等師範學校
東京文理科大學
上海自然科学研究所
命名者名略表記
(植物学)
Y.Yabe
プロジェクト:人物伝
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矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931年8月23日)は、日本植物学者理学博士位階および勲等正四位勲三等。東京生まれ。

人物

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植物学者。中国大陸の高等植物の研究にあたる。理學博士。

地球科学者矢部長克の兄[1]。 妻敬子は貴族院議員男爵中御門経隆の三女[2]

略歴

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栄典

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位階

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勲章等

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主な著作物

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  • Y. Yabe (1900). “Catalogus plantarum ad stationem zoologicam Misakensem sponte crescentium”. The Botanical Magazine 14 (158): e42-e43. doi:10.15281/jplantres1887.14.158_42. 
  • Y. Yabe (1902). “Revisio Umbelliferarum Japonicarum”. The journal of the College of Science, Imperial University of Tokyo, Japan (東京帝國大學紀要 理科) 16: 1-108. doi:10.15083/00037934. NAID 120001852474. NCID BA36794872. hdl:2261/32725. NCID BA36794872
  • Y. Yabe (1903). “Enumeratio Plantarum Alpinarum in Monte Shirouma (Prov. Shinano) collectarum”. The Botanical Magazine 17 (192): e15-e27. doi:10.15281/jplantres1887.17.192_15b. 
  • Yoshitada Yabe (1903). “Filices Koreæ”. The Botanical Magazine 17 (194): e63-e69. doi:10.15281/jplantres1887.17.194_63. NAID 130004076177. 
  • Y. Yabe (1912). An enumeration of plants hitherto known from South Manchuria (南滿洲植物目録). 南滿洲鐡道株式會社中央試驗所. NCID BA36522817. NDLJP:946865 
  • Y. Yabe (1914). Icones florae Manchuricae (滿洲植物圖説). 1. 南滿洲鐡道株式會社. NCID BA36345562. NDLJP:1014925 
  • Yoshitada Yabe (1915). “On Some New or Little Known Plants from Northern China (北支那産新植物)”. The Botanical Magazine 29 (346): e238-e241. doi:10.15281/jplantres1887.29.346_238. 
  • 矢部吉禎 (1917). 東蒙古ニ於ケル牧草及雜草 ; 東蒙古植物目録. 産業資料. 南滿洲鐡道株式會社地方部地方課. NCID BN14380448 
  • Y. Yabe (1919). A preliminary report on the flora of Tsing-tau-region (青島植物豫察調査報告). 産業資料. 南滿洲鐡道株式會社地方部勧業課. NCID BA4973610X. NDLJP:944509 
  • 矢部吉禎 (1927). “八重黄花しやくなげニ就テ”. 植物學雜誌 41 (483): 271-273 + pl. VIII-IX. doi:10.15281/jplantres1887.41.271. NAID 130004211093. 
  • Y. Yabe (1932). “On the sexual Reproduction of Prasiola japonica YATABE”. 東京文理科大學 紀要, 理科, Sec. B. 1 (3): 1-4 + pl.. 
  • 矢部吉禎『支那植物叢話』西ヶ原刊行會〈博物學叢書〉、1941年。 NCID BN16010880NDLJP:1683819 

人物像を記したもの

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矢部の没後に、追悼記事として記されたものは [13], [14], [15], [16], [17] がある。また、後年 [18] の中に 小林義雄 (菌類学者)[19] を記した。 この [19] は、加筆修正されて [20] に収録された。さらにそれが(一部修正されて)[21] に収められた。この際に、誤った「よみがな」が振られた為に、それが世間に広まった。詳細は、別項に記す。 [22] の矢部吉禎の項の記述は、この [20] をベースに記述されている。

名前の表記、「よみがな」, ローマ字表記, 生年 の誤記について

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「禎」の字体について

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「禎」は、旧字体 ( )で印刷・出版されているものが多いが、本人の書残したものでも「禎」の字体で記載しているものがある。

Y.Yabe

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Y.Yabe と略記が多用された理由は、同時期に同じ東京帝國大學 理科大學地質學科に在籍した、実弟 矢部長克 (やべ ひさかつ, YABE Hisakatsu, H.Yabe) と区別するためである[23]。 Y.Yabe も H.Yabe も IPNI に登録済の名前である。 明治末期から昭和初期にかけて、二人とも揃って博物の植物・地質の第一線で研究に当たったので、当時は「植物の矢部」は吉禎を 「地質の矢部」は長克を指すのが、学者の間の暗黙であった。

大井次三郎「日本植物誌」の中の誤記

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大井次三郎[24]の中の2つの誤記がある。

1) p.20 l.23
誤 : 矢部吉禎(1866~1931)
正 : 矢部吉禎(1876~1931)
2) p.1267 右段 l.21
誤 : Yoshitaka
正 : Yoshitada

この誤りが訂正されぬまま 英語に翻訳された [25]も 出版されたため、海外の文献で Yoshitaka の誤表記が目立つ。日本でもこれを参照したと思われる誤記は[26]の文中などにある。

後年 北村四郎[27] で 2) の誤りを指摘しているが 1) については指摘出来ていない。

木村陽二郎の誤記

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木村陽二郎[28] の中の「第2章 日本における自然史研究 第3節 明治大正時代の植物学」(pp.638-646) を執筆しているが、この中で矢部の名前に「よしさだ」の誤ったよみがなを振っている。また、同書の p.645 l.33 では矢部の生年を 1866年と誤記している。これらから想像するに、木村は [24] を参照したが、名前の Yoshitaka は誤記だと把握していたが、正しい読みを確認することなく「よしさだ」と記したと思われる。

その後、この木村の記述は [29]に転載され、さらに [21]に転載されて(さらに悪いことに、原文にふりがなの振られていなかった小林の記述部分にも誤ったふりがなが振られたために)誤った読みが広まることになった。(誰か この誤りに気付いた人が居たらしく p.27 l.32 だけ、正しいふりがなが振られている)

専門家ですら、個々の論文執筆者の原典を確認することを怠り、この過ちを繰り返している。例えば 大場秀章[22] の中の矢部吉禎の項で誤った読みを採用している。

脚注

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参考文献

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外部リンク

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