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石井忠易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石井忠易
時代 戦国時代江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長4年9月14日1599年
別名 三右衛門 、孫七郎
戒名 日法
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
主君 龍造寺隆信政家鍋島直茂勝茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井忠時、母:石井忠次の娘
養父:石井信易
兄弟 重次忠易
正室:石井信易の娘
常諦勝右衛門弥三右衛門
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石井 忠易(いしい ただやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国の戦国大名龍造寺氏および佐賀藩鍋島氏の家臣。

龍造寺隆信の家老石井忠時の次男として誕生。母は石井忠次の娘。

天正12年(1584年)3月24日、沖田畷の戦いで、本家の当主石井信易が戦死したため、信易の娘を妻に迎え、その跡を継いだ。

龍造寺氏・鍋島氏が豊臣秀吉に臣従すると、鍋島直茂の近親者として、鍋島茂里鍋島茂賢と共に人質として、小早川隆景のもとに送られ、秀吉による九州征伐まで人質生活を送った。

参考文献

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