石井秋穂
石井 秋穂 | |
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生誕 |
1900年11月1日 日本 山口県 豊浦郡 |
死没 |
1996年8月25日(95歳没) 日本 神奈川県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1922年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2日 - 1996年(平成8年)8月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。
第16師団参謀、北支那方面軍参謀などを経て、陸軍省軍務局軍務課高級課員となり、日米開戦前の政策立案などにあたる。陸軍きっての理性派として避戦を望んだが、日米交渉の失敗で戦争政策を進めることになる。
経歴
[編集]1900年(明治33年)、山口県豊浦郡豊西村で石井友三郎の五男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校本科を経て、1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を秩父宮を除き4番の成績で卒業。なお石井は、陸幼と陸士卒業時の2度に亘り恩賜の銀時計を拝受している。
1922年(大正11年)10月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第42連隊附となる。
1927年(昭和2年)、吉川キヨ子と結婚。陸士生徒隊附などを経て、1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業。翌月、歩兵第42連隊中隊長に就任。
1933年(昭和8年)12月、第16師団参謀となり、留守第16師団司令部附、参謀本部員を歴任。
1936年(昭和11年)の二・二六事件後には陸軍軍法会議の裁判官を務めた。後年、北一輝への尋問の様子や、軍法会議長官(陸軍大臣)寺内寿一から判決について圧力があったことなどを証言している[1]。
1937年(昭和12年)8月、陸軍歩兵少佐に昇進し支那駐屯軍参謀となり日中戦争(支那事変)に出征。北支那方面軍参謀(情報参謀)を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍歩兵中佐に進級。同年8月、陸軍省軍務局軍務課員に就任した。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前には、日米交渉の陸軍省側主務者として、武藤章軍務局長の下、早期開戦を唱える統帥部側の横槍を排しつつ交渉妥結に尽力した。
1941年(昭和16年)10月、陸軍大佐に昇進。翌月、南方軍参謀に発令され、同月27日に日本を出発。皮肉にもその日は、ワシントンでいわゆるハル・ノートが手交された日でもあった。その後、病気のため帰国、1943年(昭和18年)1月に陸大附となり1945年(昭和20年)8月まで入院、陸大教官への補職で第二次世界大戦終戦を迎える。同年12月、予備役編入。
戦後は故郷の山口県で晴耕雨読の静かな生活を貫いた。石井の残した日記や回想録[2]、証言[3]は、開戦当時の国策決定の内側を知る上で貴重な記録となっている。
多くの国策の立案者
[編集]開戦直前の軍務課高級課員時代の石井は、陸軍側の担当者として多くの国策の起案をしている。その当時のことを、石井は後年以下のように振り返っている。
わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。 そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。 それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。
そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。[4]
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で決定された帝国国策遂行要領については、以下のように振り返っている。
天皇陛下が、第一項に戦争が書いてある、第二項に外交が書いてあるって、ご機嫌が悪いわけね。ところがそれを、第一項に戦争を書いたのは、わしですよ。それだからわしはね、大東亜戦争ていえば、すぐさまあの「四方の海」ね、あれを思い出します。今でもそうです。大東亜戦争と言っても、負け戦だったけど、それよりも先に、あの「四方の海」を思い出します。そういうもんです。
だからわしはあの政策に、ずいぶん責任がありますよ。[4]
また、石井が開戦を決意した理由を次のように述べている。
資産凍結を受けてね、それから、約1週間ばかりに考え通したですよ。どうしようかと……。夜も昼もうちにおっても役所に出ても、そればっかりを考えた。そして、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した。[4]
そして最後に以下のように締めくくった。
和解となればね、あの時には日本は支那から撤退せにゃいけなくなりますね。それでわしは考えたんですがね、支那から撤退するとなると満州も含む、それにもかかわらず賛成する人がおろうか、おったらそれは本当の平和主義者か、そういう人がずうっと上の人からね、下のほうの幹部にいたるまで誰かおるだろうかと考えたら、おらん誰も。 結局理論的に申せばどれもこれもみな問題があったことになりますけどね。
(しばらく沈黙)
それを正直に申せばね侵略思想があったんですね。それが限りなくね、あっちこっち、これが済んだら、今度はこれという風に侵略思想があったんですよね、もとは。そういうことになりましょうね。[4]
栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
演じた俳優
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。ISBN 4130301357
- 保阪正康著『陸軍省軍務局と日米開戦』、中公文庫、1989年。ISBN 4122016258
- 保阪正康著『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』、講談社文庫、2004年。ISBN 4062749424
- 保阪正康著『陸軍良識派の研究』、光人社NF文庫、2005年。ISBN 4769824505