石原一郎
石原 一郎 いしはら いちろう | |
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生年月日 | 1899年5月18日 |
出生地 | 愛知県碧海郡古井村(現・安城市古井町) |
没年月日 | 1972年 |
出身校 | 愛知県安城農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校) |
所属政党 |
(無所属→) (自由党→) 無所属 |
称号 | 勲四等瑞宝章[1] |
安城市長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1959年2月15日 - 1967年2月14日 |
第44代愛知県議会議長 | |
在任期間 | 1957年6月 - 1958年6月 |
選挙区 | 碧海郡選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1947年4月30日 - 1959年1月22日[2] |
石原 一郎(いしはら いちろう、1899年(明治32年)5月18日[1] - 1972年(昭和47年)[3])は、日本の政治家。愛知県安城市長(2期)、愛知県議会議員(3期)、愛知県議会議長などを歴任した。
来歴
[編集]愛知県碧海郡古井村(現・安城市古井町)出身。1918年(大正7年)3月、愛知県安城農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。1919年(大正8年)3月に愛知県農事試験場(現・愛知県農業総合試験場)練習生を修了後、安城町実業補習学校の助教諭となる[1]。
1938年(昭和13年)4月に碧海郡役所書記となり、1940年(昭和15年)7月に愛知県庁官房室に転じ、1941年(昭和16年)4月、碧海地方事務所に勤務[1]。
1947年(昭和22年)4月、愛知県議会議員選挙の碧海郡選挙区(定数6)に無所属で立候補し、順位2位で初当選した[4]。1951年(昭和26年)の県議選・碧海郡選挙区(定数4)には自由党公認で立候補し、トップ当選[5]。1955年(昭和30年)の県議選は定数がさらに3に減ったが、順位2位で3期目の当選を果たす[6]。
1957年(昭和32年)6月から1958年(昭和33年)6月まで県議会議長を務めた[7]。
1959年(昭和34年)、安城市長選挙に立候補し現職の大見為次を破り初当選(市長選の結果は後述のとおり)。
安城市は1955年(昭和30年)4月1日、碧海郡明治村の一部、依佐美村の一部を編入。旧明治村の負債を引き受けたこともあり、1955年度の決算で財政赤字を計上することとなった。その後も容易に赤字は埋まらなかったため、石原は財政再建を第一に考え、1960年(昭和35年)、工場誘致条例を制定した。これにより東和精機、日本水産、愛知機器など数多くの工場の進出を促し、市は「日本デンマーク安城」から「工業都市安城」へと町づくりの方針を大きく旋回した[8]。
1967年(昭和42年)、3選を狙うも落選。1972年(昭和47年)に死去。同年5月、安城市名誉市民に推挙された[1]。
市長選挙
[編集]- 1959年安城市長選挙
1959年(昭和34年)2月1日投開票。中垣国男や岡田菊次郎の支援を受けて立候補し、現職の大見為次を約4千200票差で敗り初当選した[9][10][11]。
※当日有権者数:30,026人 最終投票率:93.11%(前回比:-0.24pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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石原一郎 | 59 | 無所属 | 新 | 16,007票 | 57.71% | |
大見為次 | 64 | 無所属 | 現 | 11,728票 | 42.29% |
- 1963年安城市長選挙
1963年(昭和38年)2月3日投開票。元市議の柴田貞次を破り再選。
※当日有権者数:35,130人 最終投票率:81.19%(前回比:-11.92pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
石原一郎 | 63 | 無所属 | 現 | 16,325票 | 57.64% | |
柴田貞次 | 不詳 | 新 | 11,999票 | 42.36% |
- 1967年安城市長選挙
1967年(昭和38年)2月4日投開票。中野四郎と浦野幸男の支援を受けた元県議の杉浦彦衛に敗れ落選[12][13][注 1]。
※当日有権者数:41,306人 最終投票率:77.34%(前回比:-3.85pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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杉浦彦衛 | 62 | 無所属 | 新 | 17,481票 | 55.08% | |
石原一郎 | 67 | 無所属 | 現 | 14,255票 | 44.92% |
- 1971年安城市長選挙
1971年(昭和46年)2月7日投開票。返り咲きを再び狙うも、杉浦との一騎打ちに敗れ落選[14]。
※当日有権者数:60,203人 最終投票率:81.24%(前回比:+3.9pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
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杉浦彦衛 | 65 | 無所属 | 現 | 25,944票 | 53.71% | |
石原一郎 | 71 | 無所属 | 元 | 22,358票 | 46.29% |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 愛知県知事選挙との同日選挙。なお投票の行われた2月4日は土曜日であった。
出典
[編集]- ^ a b c d e 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日、505頁。
- ^ 『愛知県議会記念写真帖 昭和34年』 愛知県議会、1959年。
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、239頁。
- ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、345頁。
- ^ 『愛知県議会史 第九巻』愛知県議会、1981年3月16日、364頁。
- ^ 『愛知県議会史 第十巻』愛知県議会、1983年3月15日、416頁。
- ^ “歴代正副議長一覧” (PDF). 愛知県議会 (2018年5月25日). 2019年3月14日閲覧。
- ^ 安城市史編集委員会『新編 安城市史 4』安城市役所、2010年3月31日、290-305頁。
- ^ 『東海タイムズ』1959年1月1日。
- ^ 『東海タイムズ』1959年2月9日、「地方史の〝四十八人〟 (6) 三木武夫と並ぶ〝政策マン〟 いま売り出しの中垣国男代議士」。
- ^ 『中部日本新聞』1959年2月3日付朝刊、三河版、4面、「公約実現に全力 石原安城新市長 抱負を語る」。
- ^ 『中日新聞』1967年2月3日付朝刊、三河版、8面、「安城市長選あす投票」。
- ^ 『中日新聞』1967年2月5日付朝刊、1面、「安城市長に杉浦氏 尾西は小川氏が三選」。
- ^ 『安城の選挙記録 平成27年12月』 安城市選挙管理委員会、2015年12月。