石山孫六
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石山 孫六(いしやま まごろく、1828年11年24日〈文政11年10月18日〉 - 1904年〈明治37年〉7月10日)は、幕末・明治期の剣術家。流派は忠也派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。幼名は兼五郎、諱は郷道。
経歴
[編集]江戸神田一ツ橋に石山権兵衛の次男として生まれる。11歳から忠也派一刀流剣術、宝蔵院流槍術、関口流柔術を学ぶ。
土佐藩士の招きで、1851年(嘉永4年)8月から翌年初夏まで土佐に滞在して剣術の試合を行い、藩主山内容堂の上覧を受ける。武市半平太の道場にも招かれたという。土佐の剣術界は石山の影響を受け、従来の袋竹刀が廃れ四つ割り竹刀が使用されるようになった[1]。
1854年(安政元年)、江戸鍛冶橋の土佐藩江戸藩邸への出入りを許され、藩邸で剣術を指南する。1863年(文久3年)8月25日、正式に土佐藩士(五人扶持二十石、小姓組格)として召し抱えられる。高知城下帯屋町に屋敷を与えられ、藩校致道館の剣術指南役を務めた。
明治維新後、高知県警察部や海南学校などで剣術を指南する。1895年(明治28年)10月、大日本武徳会主催の第1回武徳祭大演武会に出場し、精錬証を授与される。1903年(明治36年)、同会から第1回の範士号を授与され、その翌年に死去した。
高知城に顕彰が建っている。
脚注
[編集]- ^ 『剣の達人111人データファイル』201頁。