川崎善三郎
かわさき ぜんざぶろう 川崎 善三郎 | |
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生誕 |
1860年4月 土佐国高知城下北新町田淵 |
死没 | 1944年4月29日 |
国籍 | 日本 |
別名 | 諱:重徳 |
職業 | 警察官 |
流派 | 無外流 |
肩書き | 大日本武徳会剣道範士 |
川崎 善三郎(かわさき ぜんざぶろう、万延元年4月(1860年) - 昭和19年(1944年)4月29日)は、日本の剣道家。流派は無外流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。職業は警察官。諱は重徳。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]万延元年(1860年)、土佐藩剣術指南役・川崎専輔の子として、高知城下の北新町田淵(現在の高知市桜井町)に生まれる。川崎家は代々無外流剣術で藩に仕えた。無外流は土佐藩の有力な剣術流儀で、藩主山内容堂も学んでいる。善三郎は7歳から父に剣術を学び、鏡新明智流の馬詰栄馬、馬渕桃太郎、小野派一刀流の石山孫六などの指南も受け、上達した。
明治16年(1883年)、馬渕桃太郎率いる撃剣興行一座の一員として大阪に遠征し、高橋赳太郎(無外流高橋派)と対戦する。なかなか決着がつかず、組討ちにもつれ込んだ。審判の秋山多吉郎が「死ぬまでやれ」と励ます中、ついに二人は意識を失い、気が付いたときは二人並んで氷枕に寝かされていた。
警視庁で修行
[編集]明治19年(1886年)に上京し、警視庁撃剣世話掛に採用される。高輪警察署に配属され、署員に撃剣を指導。善三郎自身も主任教師・雨宮真三郎の指導を受け、山岡鉄舟の道場・春風館にも通う。
同時期に採用された人物に、上記の高橋赳太郎と、高野佐三郎(中西派一刀流[注釈 1])がおり、善三郎と合わせて「三郎三傑」と謳われた。その稽古は大変激しいもので、稽古のあとに便所でしゃがむと立ち上がれないので、天井から縄を吊っておいたという。
警視庁に道場破りが現れたときには、よく三郎三傑が駆り出された。薙刀術の長尾俊久との試合では、長尾の得意技は「きんかけ」という、股間を突く危険な技であったため、善三郎は睾丸を綿で包み、防具の垂をふんどしにして臨んだ。内股をしたたかに打たれたものの、善三郎の面一本勝ちであった。
関脇力士を倒す
[編集]明治31年(1898年)、山梨県警察部に転じ、同県巡査教習所教師となる。明治36年(1903年)、東京相撲の横綱・常陸山一行が地方巡業で甲府に訪れた。常陸山は北辰一刀流・内藤高治の甥で、剣道に関心を持っていたことから、甲府警察署の稽古を見学に来た。このとき、関脇・稲川が善三郎と勝負したいと言い出し、「稲川の竹刀が善三郎に触れたら稲川の勝ち。善三郎が稲川を倒したら善三郎の勝ち」という条件で試合する。善三郎は稲川の支度を手伝う際に面紐をきつく締め、息がつまるようにした。試合が始まるや稲川の振り回す竹刀をことごとくかわし、息のつまった稲川を足絡みで倒し、首を捻りつけて勝った。
晩年
[編集]明治39年(1906年)、郷里高知に戻り、高知剣道界の重鎮として弟子を育成する。ただし無外流の形の伝授は行わず、高弟の坂本土佐海が懇望しても「形なんか覚えんでええちや」といい、一度も見せなかったという[1]。
明治44年(1911年)、高野、高橋らと共に大日本帝国剣道形制定の委員に選ばれる。
大正12年(1923年)、大日本武徳会から剣道範士号を授与される。同年12月5日、高知城公園の板垣退助像建立に際し、武徳殿において奉納演武を行う[2]。
昭和4年(1929年)、御大礼記念天覧武道大会で審判員を務める。
昭和19年(1944年)、死去。
受賞
[編集]- 昭和58年(1983年)、故人として高知県スポーツの殿堂に入る。功績概要は「日本を代表する剣道の達人・40余年間の指導歴」[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『月刊剣道日本』1977年5月号69頁「続・剣脈風土記2 土佐 無外流」、スキージャーナル
- ^ 『板垣退助君略傳』池田永馬編、板垣伯銅像記念碑建設同志会、大正13年(1924年)9月5日
- ^ 高知県スポーツの殿堂入り 高知県庁ホームページ
参考文献
[編集]- 村上晋編『大正武道家名鑑』平安考古会、1921年。
- 『剣道家写真名鑑』剣道家写真名鑑刊行会、1924年。
- 『板垣退助君略傳』池田永馬編、板垣伯銅像記念碑建設同志会、大正13年(1924年)9月5日
- 宮内省監修『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合』大日本雄弁会講談社編、1934年。
- 『月刊剣道日本』1977年5月号「続・剣脈風土記2 土佐 無外流」、スキージャーナル
- 『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年。
- 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』〈光文社文庫〉光文社、1996年。