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石川河主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川河主
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平勝宝6年(754年
死没 天長7年12月27日831年1月14日
官位 正四位上武蔵守
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 蘇我氏石川氏
父母 父:石川豊成
兄弟 河主
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石川 河主(いしかわ の かわぬし)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族中納言石川豊成の十男。官位正四位上武蔵守

経歴

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初め縁あって出家して僧籍にあったが還俗して朝廷に再出仕し、延暦13年(794年)に従五位下叙爵。以後、木工頭造宮亮播磨介等を歴任し、延暦23年(804年)に菅野真道と共に僧綱事務の監督を命じられる[1]。またこの間に従五位上に叙せられている。延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。

嵯峨朝では内匠頭民部大輔を務める傍ら、弘仁4年(813年従四位下、弘仁13年(822年)従四位上と昇進した。弘仁14年(823年)4月の淳和天皇の即位に伴い正四位下、同年11月には正四位上と続けて昇叙される。のち左京大夫武蔵守などを歴任した。この間、天長4年(827年山陵の木を伐採するために[2]、天長5年(828年天変地異を鎮める祈祷を行うためにそれぞれ柏原山陵に派遣されている[3]

天長7年12月(831年1月)27日卒去享年77。最終官位は正四位上武蔵守。

人物

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仏教儒教の多数の教典を学び、併せて工芸技術の知識も持っていた。桓武天皇の時代に造作が盛んであったことから、時流に乗って身を処して利益を得たが、貪欲であり他人に施すようなことはなかった[4]

官歴

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脚注

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  1. ^ 『日本後紀』延暦23年11月27日条
  2. ^ 『日本後紀』天長4年11月25日条
  3. ^ 『日本後紀』天長5年8月18日条
  4. ^ 『日本後紀』天長7年12月27日条

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年