石川総因
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文11年(1671年) |
死没 | 享保13年9月7日(1728年10月9日) |
別名 | 彦十郎、信澄、頼母・民部 |
戒名 | 了性院殿総因 |
墓所 | 寶泰寺(現静岡県静岡市葵区伝馬町) |
官位 | 従五位下、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 石川氏→下條氏→石川氏 |
父母 |
父:石川義當、母:某氏 養父:総乗 |
兄弟 |
庄三郎、阿充(佐治好耀(本家家臣)妻) 養子:義武(上野當時の子)、総因 |
妻 | 妻:鈴木氏(坊城家女中) |
子 |
養子:総為(大久保教福三男) 養女:鈴木新蔵の女(水野忠福室)、佐治好耀の女(総乗外孫・総為室) |
石川 総因(いしかわ ふさより)は、江戸時代前期の旗本。貞當系石川家(大島石川家)4代。
生涯
[編集]寛文11年(1671年)石川義當の三男として誕生し、下條長兵衛信隆の養子となり信澄と称した。元禄5年11月1日(1692年12月8日)将軍徳川綱吉に拝謁する。この後御書院番・桐間番近習・御小姓・進物役を務める。
正徳5年(1715年)兄総乗の養嗣子義武が亡くなったことから、幕命により兄の養子になる。同年12月(1716年1月)将軍家継に拝謁し、享保5年5月(1720年6月)総乗が死去により8月4日(9月6日)大島石川家の家督を継いだ。
御小姓組番頭となり享保7年12月18日(1723年1月24日)従五位下・丹後守に叙任し、御書院番頭を務め駿府大番となったが享保13年9月7日(1728年10月9日)同地で死去した。
参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』