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石川総恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川総恒
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保13年9月11日1728年10月13日
死没 寛政11年6月16日1799年7月18日
別名 民之助、民部
戒名 寛清院殿総為日勝
墓所 東京都北区田端の大久寺
官位 従五位下伊予守後に阿波
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家重家治家斉
氏族 石川氏
父母 父:石川総為、母:総因養女
兄弟 阿さち(久貝正保室)、総恒
阿やす(土屋応直室)
娘(大久保教房(総為実弟)養女)
阿ひで(諏訪頼致室)
阿ちか(諏訪頼致後室)
正室:板倉昌信の娘
後室:松平信友の養女、堀親長の姉
総武、娘(吉川経倫室)
総博(本家総純養子)、阿清(船越景範室)
総伴、元三郎
養女:阿くに(笹本靱負の娘、御城上り)
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石川 総恒(いしかわ ふさつね)は、江戸時代中期から後期の旗本。貞當系石川家(大島石川家)6代。

生涯

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享保13年9月11日(1728年10月13日)石川総為の嫡男として誕生し、元文2年9月18日(1737年10月11日)将軍徳川吉宗に拝謁した。宝暦元年3月16日(1751年4月11日)父死去した後、同年12月25日(1752年2月9日)遺跡を継ぐ。

中奥御小姓となり、宝暦7年12月18日(1758年1月27日従五位下・伊予守に叙任する。御小姓組番頭・御書院番頭・大番頭を勤め留守居役となり、寛政元年1月20日(1789年2月14日)職を辞し、翌年4月25日(1790年)6月7日致仕した。寛政11年6月16日(1799年7月18日)江戸水道橋の屋敷で死去する。

参考文献

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関連項目

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