石川総恒
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保13年9月11日(1728年10月13日) |
死没 | 寛政11年6月16日(1799年7月18日) |
別名 | 民之助、民部 |
戒名 | 寛清院殿総為日勝 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
官位 | 従五位下、伊予守後に阿波守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家重→家治→家斉 |
氏族 | 石川氏 |
父母 | 父:石川総為、母:総因養女 |
兄弟 |
阿さち(久貝正保室)、総恒 阿やす(土屋応直室) 娘(大久保教房(総為実弟)養女) 阿ひで(諏訪頼致室) 阿ちか(諏訪頼致後室) |
妻 |
正室:板倉昌信の娘 後室:松平信友の養女、堀親長の姉 |
子 |
総武、娘(吉川経倫室) 総博(本家総純養子)、阿清(船越景範室) 総伴、元三郎 養女:阿くに(笹本靱負の娘、御城上り) |
石川 総恒(いしかわ ふさつね)は、江戸時代中期から後期の旗本。貞當系石川家(大島石川家)6代。
生涯
[編集]享保13年9月11日(1728年10月13日)石川総為の嫡男として誕生し、元文2年9月18日(1737年10月11日)将軍徳川吉宗に拝謁した。宝暦元年3月16日(1751年4月11日)父死去した後、同年12月25日(1752年2月9日)遺跡を継ぐ。
中奥御小姓となり、宝暦7年12月18日(1758年1月27日従五位下・伊予守に叙任する。御小姓組番頭・御書院番頭・大番頭を勤め留守居役となり、寛政元年1月20日(1789年2月14日)職を辞し、翌年4月25日(1790年)6月7日致仕した。寛政11年6月16日(1799年7月18日)江戸水道橋の屋敷で死去する。
参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』