石川総詳
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛延3年1月11日(1750年2月17日) |
死没 | 文化9年11月28日(1812年12月31日) |
別名 | 山平 |
戒名 | 更雨院殿新好日敷 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治・家基→徳川家斉 |
氏族 | 石川氏(本姓:清和源氏) |
父母 | 父:石川総共、母:某氏 |
兄弟 |
某、総詳、阿ふみ(堀知秀室) 阿喜代(津田信之室)、阿政、宗兵衛 官八郎、大助、阿みち(谷口正成室) |
妻 | 正室:林信言の娘 |
子 |
養子:総朋 総功 |
石川 総詳(いしかわ ふさあき)は、江戸時代中期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)5代。
生涯
[編集]寛延3年1月(1750年2月)石川総共の次男として誕生した。宝暦13年9月1日(1763年10月7日)将軍徳川家治に拝謁し、家治嫡子家基に近侍する。明和9年2月29日(1772年4月1日)林信言の次女と婚姻し、安永4年12月6日(1775年12月28日)遺跡を継ぐ。寛政6年閏11月17日(1795年1月7日)致仕する。文化9年11月28日(1812年12月31日)築地萬年橋の屋敷にて死去した。
天明元年(1781年)総詳が支配する保久石川家領地三河国加茂郡羽布村(現愛知県豊田市羽布町)が同国設楽郡黒瀬村(現愛知県新城市作手黒瀬)他2村に対して山論の訴えを行ったことが資料として残されており、当時盛んに発生した山論争議の貴重な資料となっている[1]。
脚注
[編集]- ^ 「司法資料 別冊 第19号 (裁許留)」 「96 三州羽布村と同国黒瀬村外弐ヶ村、山出入」の項(司法省秘書課 1943年)
参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』