津田信之
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墓所(2017年11月) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 明暦元年(1655年)[1] |
死没 | 元禄11年7月8日(1698年8月13日) |
改名 | 権之丞、信之、一渓 |
戒名 | 淵心院永雄一兮居士 |
墓所 | 名古屋市西区東雲寺 |
主君 | 徳川義直→光友 |
藩 | 尾張藩士(御附属列衆) |
氏族 | 津田氏 |
父母 | 父:津田知信、母:滝川忠征娘 |
兄弟 | 信正、信之、女子 |
子 | 親信、信晋、左太郎 |
津田 信之(つだ のぶゆき)は、江戸時代前期の尾張藩士。家紋は織田木瓜。津田貫流槍術の創始者。
略歴
[編集]織田藤左衛門家(小田井織田氏)の子孫・津田知信の次男として誕生。貫流槍術を開く。
初御目見以降、御通番、御書院番、御書院小頭、御足軽頭(300石)、黒御門御足軽頭となる。
元禄5年(1692年)、御鑓奉行となる。元禄7年(1694年)、隠居。
元禄11年(1698年)7月8日、病没。戒名は淵心院永雄一兮居士。
尾張藩4代藩主・徳川吉通は幼少より信之の教授を受けている。愛知県名古屋市西区の東雲寺に夫妻の墓碑がある。
脚注
[編集]- ^ 朝日日本歴史人物事典 kotobank
参考文献
[編集]- 『士林泝洄』
- 『藩士名寄』