石河幹明
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石河 幹明 | |
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生誕 |
石河 忠四郎[1][2] 1859年11月11日 常陸国東茨城郡下市萩7番地[2] |
死没 |
1943年7月25日(83歳没) 麻布富士見町[2] |
国籍 | 日本 |
別名 | 碩果生[1][2] |
教育 | 慶應義塾本科 |
職業 | ジャーナリスト、『時事新報』記者・主筆 |
活動期間 | 1885年-1935年 |
代表経歴 | 『福澤諭吉伝』 |
宗教 | キリスト教 |
配偶者 | 里[2] |
子供 | 2男5女[2] |
家族 |
水戸藩士石河幹孝(父)、 石河明夫(子)[3] |
石河 幹明(いしかわ かんめい[1][2]、安政6年10月17日(1859年11月11日) - 昭和18年(1943年)7月25日)は、日本のジャーナリスト。新聞『時事新報』主筆、茨城県会議員。慶應義塾理事および評議員。交詢社常議員長。徳川家評議員。千代田生命取締役。
号は碩果生(せきかせい)。福澤諭吉の伝記『福澤諭吉伝』全4巻を執筆し、大正版『福澤全集』全10巻、昭和版『続福澤全集』全7巻を編纂した。
経歴
[編集]- 1859年11月11日(安政6年10月17日)、水戸城下に水戸藩士・石河竹之助幹孝の三男として生まれる。従妹は松木直己の妻。
- 水戸の自強舎で学ぶ。さらに師範学校内の中学予備校(茨城中学校)に進学する[4]。
- 太田小学校第三代校長(明治10年)
- 下市小学校第五代校長(明治13年)
- 1881年(明治14年)5月1日に慶應義塾の正則に入社、さらに本科に進む。
- 1885年(明治18年)4月から1922年(大正11年)5月まで時事新報社に勤務する[5]。
- 1923年(大正12年)6月19日、慶應義塾評議委員会の委託により『福澤諭吉伝』全4巻を執筆開始。9月、「福澤先生伝記編纂所」を開設。
- 1925年(大正14年)12月から1926年(昭和元年)にかけて『福澤全集』を刊行。
- 1932年(昭和7年)、2月から7月にかけて『福澤諭吉伝』を出版。
- 1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)にかけて『続福澤全集』を刊行。
- 1935年(昭和10年)、3月に『福澤諭吉』を出版。
- 1943年(昭和18年)7月25日に老衰のため自宅で没する。洗礼名はヨゼフ。多磨霊園に葬られる[2][6]。
著書
[編集]単著
[編集]- 『福澤諭吉伝』 全4巻、岩波書店、1994年(原著1932年)。ISBN 4-00-008648-0 ISBN 4-00-008649-9 ISBN 4-00-008650-2 ISBN 4-00-008651-0 。
- 『福澤諭吉』岩波書店、1935年3月25日 。
編著
[編集]短編
[編集]- 石河幹明 著「福沢先生の文章」、富田正文 編『福沢諭吉集』筑摩書房〈明治文学全集 第8〉、1966年。
- 西田長寿 編『明治新聞人文学集』筑摩書房〈明治文学全集 91〉、1979年7月。 - 収録作品は石河幹明の仕事で公開されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 土橋俊一 著、西田長寿 編『明治新聞人文学集』筑摩書房〈明治文学全集 91〉、1979年7月、116-144,451f頁。ISBN 4-480-10391-0。
- 平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書 394〉、2004年8月20日、6,27,46-49,66-76,88-93,147頁。ISBN 4-16-660394-9。
- 松崎欣一 著「石河幹明 いしかわ みきあき」、福澤諭吉事典編集委員会 編『福澤諭吉事典』慶應義塾大学出版会、2010年12月25日、p.436 f頁。ISBN 978-4-7664-1800-2。
- 三田評論総: 創刊80年記念出版(1898-1978年)
- 石河明子『水戸っぽの頑固』祖父幹明と福沢諭吉・未亡人里からの聞き書き 2018年9月25日 銀の鈴社
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]『慶應義塾豆百科』 No.80 『福澤諭吉傳』の復刊