石坂惟寛
石坂 惟寛 | |
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生誕 |
1840年3月25日 備前国 |
死没 | 1923年7月29日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1872 - 1900 |
最終階級 | 陸軍軍医監 |
戦闘 |
西南戦争 日清戦争 |
石坂 惟寛(いしざか いかん、天保11年2月22日[1][注 1](1840年3月25日) - 大正12年(1923年)7月29日[1][注 2])は、日本の幕末から明治にかけての医師、陸軍軍人(軍医官)。最終階級は陸軍軍医監(少将相当官)。幼名、逸蔵[1]。
経歴
[編集]備前国(現岡山県)出身[1]。赤松秀の二男として生れ、岡山藩医・石坂堅壮の養子となる[1]。1860年(万延元年)9月、適塾に入門し西洋医学を学び、のちに岡山藩侍医となる[1]。
1872年(明治5年)1月、陸軍軍医となり二等軍医副に任官[1]。1875年(明治8年)11月、広島鎮台病院長に就任[1]。1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征[1]。その後、陸軍本病院第1課長、大阪鎮台病院長、東京陸軍病院治療課長、陸軍軍医本部庶務課長、陸軍省医務局第1課長などを歴任し、1887年(明治20年)5月、軍医監に進級[1][2]。同年5月から翌年12月まで陸軍軍医学舎長(後の陸軍軍医学校長)を務めた[1][2]。
1888年(明治21年)12月、第1師団軍医部長兼衛生会議議長となり、1894年(明治27年)8月、軍医総監(少将相当官)に進級し第1軍軍医部長に発令され翌月から日清戦争に従軍した[1][2][3]。1895年(明治28年)9月、台湾総督府陸軍局軍医部長となり、翌年1月まで務め5月から休職した[1][2][3]。1896年(明治29年)12月、第4師団軍医部長として復帰した[1][2][3]。
1897年(明治30年)3月、制度改正により軍医監(少将相当官)となった[1]。
同年9月、陸軍省医務局長となり、翌年8月に休職した[1][2][3]。1900年(明治33年)12月1日、後備役に編入され[4]、1905年(明治38年)10月16日に退役した[5]。墓所は多磨霊園。
なお、参考文献には貴族院議員を務めたとの記述があるが、『議会制度百年史 貴族院議員名鑑』などには記載が無く誤りと思われる[注 3]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章[8]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 勲二等旭日重光章[10]
著書
[編集]- 手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、17頁。
- ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』529頁。
- ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』65頁。
- ^ 『官報』第5227号、明治33年12月3日。
- ^ 『官報』第6916号、明治39年7月19日。
- ^ 『官報』第3388号「叙任及辞令」1894年10月11日。
- ^ 『官報』第5272号「叙任及辞令」1901年2月1日。
- ^ 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
- ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。