石黒修
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基本情報 | |||||||||||||
フルネーム | Osamu Ishiguro | ||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||
出身地 | 同・長崎県長崎市 | ||||||||||||
生年月日 | 1936年8月12日 | ||||||||||||
没年月日 | 2016年11月9日(80歳没) | ||||||||||||
死没地 | 同・東京都 | ||||||||||||
身長 | 175 cm | ||||||||||||
体重 | 70 kg | ||||||||||||
利き手 | 右 | ||||||||||||
4大大会最高成績・シングルス | |||||||||||||
全豪 | 3回戦(1965) | ||||||||||||
全仏 | 2回戦(1964) | ||||||||||||
全英 | 3回戦(1963) | ||||||||||||
全米 | 2回戦(1963) | ||||||||||||
4大大会最高成績・ダブルス | |||||||||||||
全豪 | ベスト8(1965) | ||||||||||||
獲得メダル | |||||||||||||
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石黒 修(いしぐろ おさむ、1936年8月12日 - 2016年11月9日)は、日本の男子プロテニス選手。日本プロテニス界のパイオニアとして活躍した名選手である。次男は俳優の石黒賢。父はタービン設計者の石黒九一、祖父は土木技術者の石黒五十二、曽祖父は加賀藩の国学者の石黒千尋。
経歴
[編集]長崎県長崎市出身。8歳の時に長崎市で原子爆弾に被爆。午前11時2分には民家に入っていたためかろうじて助かった。戦後は父・九一の仕事の都合で神戸市で育つ。
中学1年生の時にテニスを始める。甲南中学校・高等学校(2年先輩に松岡功)、慶應義塾大学法学部政治学科、三菱電機へ進み、全日本ジュニア、インターハイ、インカレを制する。
1961年にはデビスカップの代表に選ばれ、東洋ゾーン準決勝で奇跡の逆転勝利を演出した。さらにウィンブルドン選手権の前哨戦では当時ランキング1位のニール・フレーザー(オーストラリア)を破る大金星を挙げ、同選手権にも初出場で初戦を突破し、1回戦でアラン・ミルズ(イギリス、長年ウィンブルドン選手権の運営委員を務めた)を破った。同年の全日本選手権で初優勝を遂げる。
全日本選手権はシングルス3度(1961年・1964年・1965年)、ダブルス3度(1962年・1964年・1965年)制し、混合ダブルスでは3連覇(1963年・1964年・1965年)を達成した。ウィンブルドンには1961年-1966年の6年連続で出場し、1963年の3回戦進出が最高である。全豪選手権では、1965年にフレッド・ストール(オーストラリア)との3回戦まで進出したことがある。
1965年、デビスカップ日本代表監督に就任。1971年、戦後初の日本人プロ選手となる。1972年、日本プロテニス協会を創設し、初代理事長に就任する。
第一線から退いた後も、日本テニス協会の評議委員、小学5年生時の松岡修造を指導[1]、日本プロテニス協会の副会長を務める傍らでベテラン(65歳以上)の部に参戦し、生涯現役を貫いた。
著書
[編集]- 『テニス―ジュニアから一流選手まで』(1974年、講談社)
- 『ぐんぐん上達する女子テニス』(1983年、高橋書店)
CM
[編集]- 日産・ローレル
- ジョカリ
- ロッテ・クイッククエンチ
参考文献
[編集]- 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(177ページより、4大大会成績表を参照)
脚注
[編集]- ^ “石黒賢のルーツ探るNHK番組に“熱血男”登場 今田耕司も驚く「“石黒修魂”は永遠」と熱弁”. 日刊スポーツ. (2024年10月15日) 2016年10月19日閲覧。
- ^ “テニスの石黒修氏が死去、80歳 戦後初のプロ選手 俳優の石黒賢氏の父”. 産経ニュース (2016年11月10日). 2020年11月5日閲覧。
- ^ “テニスの石黒修氏が死去 戦後初のプロ、俳優の賢氏の父”. 共同通信 News47. (2016年11月10日) 2016年11月10日閲覧。