祖国党
祖国党(そこくとう、トルコ語:Anavatan Partisi、略称:ANAP)は、トルコ共和国の中道右派政党。日本語では母国党とも訳される。
沿革
[編集]祖国党は、1983年の民政移管の際に、トゥルグト・オザルによって設立された。 祖国党には、1980年の9月12日クーデターで禁止された主要4政党(公正党、共和人民党、国民救済党、民族主義者行動党)から参加者が集まり、広範な層の国民を支持基盤とした。
祖国党は、1983年、1987年の総選挙で単独過半数の議席を獲得し、オザル政権を樹立。オザル政権では、トルコ経済の自由化を推進したほか、国是である政教分離原則を緩和し、トルコにおけるイスラームの復興現象にも影響を与えた。
1991年の総選挙で敗北し下野。1993年のオザル死去に伴い、党首メスト・ユルマズのもとで、世俗主義色を強めた。1995年の総選挙では、イスラーム系政党である福祉党の政権参加を妨げるために、正道党と連立を組み、ユルマズ政権を樹立したが、両党間のスキャンダル合戦が激化し、同政権は短命に終わった。後を受けて成立した福祉党のエルバカン政権が、軍部の圧力により退陣すると、1997年に再びユルマズが組閣を行った。1999年の総選挙後は、民主左派党のエジェヴィト政権に与党として参加したが、2002年の総選挙で公正発展党の躍進のため惨敗、議席を失って院外政党に転落した。
2007年の総選挙に際して、正道党党首メフメト・アールと祖国党党首エルカン・ムムジュは、中道右派の両党が合流し、民主党(Demokrat Parti)を旗揚げすると発表した。しかし、結局両党は候補者リストの作成について合意する事が出来ず、合意は完全に破綻した。結果、正道党は一人の当選者を獲得する事も出来ず、祖国党はそもそも選挙に参加する事すら叶わなかった。
2009年10月31日の党総会において、民主党(Demokrat Parti)と合併統合することを決め、党の歴史に終止符を打った。
総選挙での得票率、獲得議席数
[編集]祖国党が参加した総選挙での得票率、獲得議席数は以下の通り[1]。
年 | 党首 | 得票数 | 得票率 | 獲得議席 |
---|---|---|---|---|
1983年 | トゥルグト・オザル | 7,833,148 | 45.1% | 211 |
1987年 | トゥルグト・オザル | 8,704,335 | 36.3% | 292 |
1991年 | メスト・ユルマズ | 5,862,623 | 24.0% | 115 |
1995年 | メスト・ユルマズ | 5,527,288 | 19.6% | 132 |
1999年 | メスト・ユルマズ | 4,122,929 | 13.2% | 86 |
2002年 | メスト・ユルマズ | 1,618,465 | 5.1% | 0 |
歴代党首
[編集]- トゥルグト・オザル (Turgut Özal 在任:1983年3月20日 - 1989年10月31日)
- ユルドゥルム・アクブルト (Yıldırım Akbulut 在任:1989年11月16日 - 1991年6月15日)
- メスト・ユルマズ (Mesut Yılmaz 在任:1991年6月15日 - 2002年11月4日)
- アリ・タリプ・オズデミル(Ali Talip Özdemir 在任:2003年1月12日 - 2003年12月14日)
- ネスリン・ナス(Nesrin Nas 在任:2003年12月14日 - 2004年11月25日)
- エルカン・ムムジュ(Erkan Mumcu 在任:2005年4月2日 - )
(党首が正式に選出されるまでの間は、党幹部会による集団指導体制となる。)
脚注
[編集]- ^ Milletvekili Genel Seçimi sonuçları (トルコ政府統計局 国政選挙結果)
参考文献
[編集]- 澤江史子 『現代トルコの民主政治とイスラーム』 ナカニシヤ出版 2005年 (ISBN 4-88848-987-4)