禁酒党
禁酒党 Prohibition Party | |
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委員長 | Rick Knox |
成立年月日 | 1869年 |
合衆国下院議席数 |
0 / 435 (0%) |
合衆国上院議席数 |
0 / 100 (0%) |
政治的思想・立場 |
キリスト教民主主義 禁酒運動 社会保守主義 |
シンボル | ラクダ |
公式カラー | 赤、緑、灰色 |
公式サイト | Prohibition Party |
禁酒党(きんしゅとう。英語:Prohibition Party、PRO)は、アメリカの政党である。禁酒主義に基づき、アルコール飲料の販売や消費に反対する事が主な政治思想である。現存するアメリカの第三党の中では最も古い政党であり、禁酒運動の中心的存在であった。アメリカの主要政党になることは無かったが、19世紀後半には共和党の票を奪い、第三政党制における重要勢力だったこともある。1933年の禁酒法廃止後は急速に衰退した。
歴史
[編集]禁酒党は1869年に設立され、ミシガン州のジョン・ラッセルが初代全国委員長に就いた[1]。その後、賛同者を増やし、各地の多くの郡で酒の製造および販売を禁止することに成功した。
同時に、そのイデオロギーは進歩主義的な見地にまで拡大した。1910年代には少数党ながら、カリフォルニア州第9選挙区選出下院議員・チャールズ・ランダルを、第64回、第65回、第66回議会に送り込んだ。フロリダ州の民主党員、シドニー・カッツは、1916年のフロリダ州知事選で民主党の予備選挙に負けた後、禁酒党から立候補して当選した(ただし、民主党員のままであった)。
禁酒党の最盛期は、酒の製造・販売・輸送・輸出入を禁止するアメリカ合衆国憲法修正第18条が1919年に可決されて以降のいわゆる「禁酒法時代」であった。
禁酒法時代、党は法の厳格な執行を求めた。例えば1928年アメリカ合衆国大統領選挙において、自党の候補者を立てずに共和党のハーバート・フーヴァーを支持することを検討したが、全国最高委員会は、4対3の投票結果で、自党のウィリアム・バーニーの候補者指名を決定した。これはフーヴァーの禁酒に対する姿勢が十分でないと感じていたからであった[2]。禁酒党はフーヴァーが大統領に当選した後、より彼に批判的になった。1932年の選挙では、党委員長のデヴィッド・リー・コルヴィンが、「共和党の(禁酒法の廃止を支援する)ウエット[3]な要綱は、フーヴァー氏がベネディクト・アーノルド以後、最大の裏切り者であることを示している」と声を張り上げた[4]。フーヴァーは落選したものの、進歩主義のルーズヴェルトにより、1933年にアメリカ合衆国憲法修正第21条が可決され、禁酒法は廃止された。
衰退
[編集]党は禁酒法の廃止以降急速に勢力を失い、第二次世界大戦後はほぼ無名の存在となった。1977年に党名を「全国政治家党(National Statesman Party)」に改名した際、『タイム』は「党名変更しても風変わりな政治思想から脱却することは疑わしい」と示唆した[5]。その後、1980年に元の党名に戻している。
それでも禁酒党は毎回大統領選挙の候補者を立てたが、得票数は回を重ねるごとに減少した。10万票を超えたのは1948年の選挙が最後であり、1万票を超えたのも1976年が最後である。2012年の選挙では僅か519票しか獲得することができなかった。
2003年の分裂
[編集]禁酒党は2003年に分裂した。前大統領候補のアール・ドッジが、コロラド州に全国禁酒党というライバル政党を設立し、ドッジは2003年8月に自宅の居間で指名委員会を8名で開催し、ライバル政党の大統領候補に指名された[6][7]。
一方、ドッジのライバルたちは、2004年2月に、ジーン・アモンドソンを大統領候補に指名した。ドッジ派もアモンドソン派も、相手方の正統性を認めなかった。アモンドソンはルイジアナ州で禁酒党として立候補した。ドッジはコロラド州で禁酒党として立候補したが、アモンドソンは、同州で国民不安党(Concerns of People Party)の支持を受けドッジに対抗した[8]。アモンドソンが全国で1944票を獲得したのに対し、ドッジは140票しか獲得できなかった。
2007年12月にドッジが死んだとき、ドッジ派は大統領候補者が決まっていなかった[9]。2008年春、ドッジ派はアモンドソンを大統領候補に指名したが、副大統領候補には、自派閥のハワード・リディックを指名した[10]。
また、この2つの派閥は、1930年にジョージ・ペノックが禁酒党に寄付した金(毎年約8000ドルが支払われることになっている[11])を巡って争っている[12]。
選挙結果
[編集]大統領選挙
[編集]禁酒党は、1872年以来、毎回大統領候補を立てており、民主党と共和党に次ぐ最も歴史のあるアメリカの政党である。
禁酒党全国大会および大統領選挙結果 | ||||||
年 | 回 | 開催地 | 日付 | 大統領候補 | 副大統領候補 | 票 |
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1872 | 1 | オハイオ州コロンバス、コムストック・オペラハウス | 1872年2月22日 | ジェームズ・ブラック(ペンシルベニア) | ジョン・ラッセル(ミシガン) | 2,100 |
1876 | 2 | オハイオ州クリーブランド、ハレズホール | 1876年5月17日 | グリーン・クレイ・スミス (ケンタッキー) | ギデオン・スチュワート(オハイオ) | 6,743 |
1880 | 3 | クリーブランド、ハレズホール | 1880年6月17日 | ニール・ダウ(メイン) | ヘンリー・アダムス・トンプソン(オハイオ) | 9,674 |
1884 | 4 | ペンシルベニア州ピッツバーグ、ラファイエットホール | 1884年7月23-24日 | ジョン・セント・ジョン(カンザス) | ウィリアム・ダニエル(メリーランド) | 147,520 |
1888 | 5 | インディアナ州インディアナポリス、トムリンソンホール | 1888年5月30-31日 | クリントン・フィスク(ニュージャージー) | ジョン・ブルックス(ミズーリ) | 249,813 |
1892 | 6 | オハイオ州シンシナティ、ミュージックホール | 1892年6月29-30日 | ジョン・ビッドウェル(カリフォルニア) | ジョン・クランフィル(テキサス) | 270,770 |
1896 | 7 | ピッツバーグ、エクスポジションホール | 1896年5月27-28日 | ヨシュア・リーバーリング(メリーランド) | ヘイル・ジョンソン(イリノイ) | 125,072 |
[7] | ピッツバーグ | 1896年5月28日 | チャールズ・ユージン・ベントレー(ネブラスカ) | ジェームズ・サウスゲート(ノースカロライナ) | 19,363 | |
1900 | 8 | イリノイ州シカゴ、ファーストレジメントアーマリー | 1900年6月27-28日 | ジョン・ウーレイ(イリノイ) | ヘンリー・メトコルフ(ロードアイランド) | 209,004 |
1904 | 9 | インディアナポリス、トムリンソンホール | 1904年6月29日-7月1日 | サイラス・スワロー(ペンシルベニア) | ジョージ・ワシントン・キャロル(テキサス) | 258,596 |
1908 | 10 | コロンバス、メモリアルホール | 1908年7月15-16日 | ユージン・チャフィン(イリノイ) | アーロン・ワトキンス(オハイオ) | 252,821 |
1912 | 11 | ニュージャージー州アトランティックシティ、広い仮設桟橋 | 1912年7月10-12日 | ユージン・チャフィン(イリノイ) | アーロン・ワトキンス(オハイオ) | 207,972 |
1916 | 12 | ミネソタ州セントポール | 1916年7月19-21日 | フランク・ハンリー(インディアナ) | アイラ・ランドリス(テネシー) | 221,030 |
1920 | 13 | ネブラスカ州リンカーン | 1920年7月21-22日 | アーロン・ワトキンス(オハイオ) | レイ・コルビン(ニューヨーク) | 188,685 |
1924 | 14 | コロンバス、メモリアルホール | 1924年6月4-6日 | ハーマン・ファリス(ミズーリ) | マリー・ブレヘム(カリフォルニア) | 54,833 |
1928 | 15 | シカゴ、ホテル・ラサール | 1928年7月10-12日 | ウィリアム・バーニー(ニューヨーク) | ジェームズ・エドガートン | 20,095 |
[15] | [カリフォルニアチケット] | ハーバート・フーヴァー (カリフォルニア) | チャールズ・カーティス (カンザス) | 14,394 | ||
1932 | 16 | インディアナポリス、キャンドル・タバーナクル | 1932年7月5-7日 | ウィリアム・アップショー(ジョージア) | フランク・リーガン (イリノイ) | 81,916 |
1936 | 17 | ニューヨーク州ナイアガラフォールズ、ステイト・アーマリー・ビル | 1936年5月5-7日 | レイ・コルビン(ニューヨーク) | アルビン・ヨーク(テネシー) (辞退); クロード・ワトソン(カリフォルニア) |
37,667 |
1940 | 18 | シカゴ | 1940年5月8-10日 | ロジャー・バブソン(マサチューセッツ) | エドガー・ムーマン(イリノイ) | 58,743 |
1944 | 19 | インディアナポリス | 1943年11月10-12日 | クロード・ワトソン(カリフォルニア州) | フロイド・キャリアー(メリーランド) (撤回); アンドリュー・ジョンソン(ケンタッキー) |
74,735 |
1948 | 20 | インディアナ州ウイノナ・レイク | 1947年6月26-28日 | クロード・ワトソン(カリフォルニア) | デイル・ラーン(ペンシルベニア) | 103,489 |
1952 | 21 | インディアナポリス | 1951年11月13-15日 | スチュアート・ハンブレン(カリフォルニア) | エノク・ホルトウィック(イリノイ) | 73,413 |
1956 | 22 | インディアナ州マイルフォード、キャンプ・マック | 1955年9月4-6日 | エノク・ホルトウィック(イリノイ) | ハーバート・ホルドリッジ(カリフォルニア) (撤回); エドウィン・クーパー(カリフォルニア) |
41,937 |
1960 | 23 | ウイノナ・レイク、ウェストミンスターホテル | 1959年9月1-3日 | ラザフォード・デッカー(ミズーリ) | ハロルド・マン(ミシガン) | 46,193 |
1964 | 24 | シカゴ、ピック・コングレス・ホテル | 1963年8月26-27日 | ハロルド・マン(ミシガン) | マーク・ショウ(マサチューセッツ) | 23,266 |
1968 | 25 | ミシガン州デトロイト、YWCA | 1968年6月28-29日 | ハロルド・マン(ミシガン) | ローランド・フィッシャー(カンザス) | 14,915 |
1972 | 26 | カンザス州ウィチタ、ナザレ教会 | June 24–25, 1971 | ハロルド・マン(ミシガン) | マーシャル・アンキャファー(カンザス) | 12,818 |
1976 | 27 | コロラド州ホイート・リッジ、ベス・エデン・バプテスト教会 | 1975年6月26-27日 | ベンジャミン・ブーバー(メイン) | アール・ドッジ(コロラド) | 15,934 |
1980 | 28 | アラバマ州バーミングハム、モーテル・バーミングハム | 1979年6月20-21日 | ベンジャミン・ブーバー(メイン) | アール・ドッジ(コロラド) | 7,212 |
1984 | 29 | ノースダコタ州マンダン | 1983年6月22-24日 | アール・ドッジ(コロラド) | ウォーレン・マーティン(カンザス) | 4,242 |
1988 | 30 | イリノイ州スプリングフィールド、ヘリテージハウス | 1987年6月25-26日 | アール・ドッジ(コロラド) | ジョージ・オルムズビー(ペンシルベニア) | 8,002 |
1992 | 31 | ミネソタ州ミネアポリス | 1991年6月24-26日 | アール・ドッジ(コロラド州) | ジョージ・オルムズビー(ペンシルベニア) | 935 |
1996 | 32 | コロラド州デンバー | 1995年 | アール・ドッジ(コロラド) | レイチェル・ブーバー・ケリー(メイン) | 1,298 |
2000 | 33 | ペンシルベニア州バード・イン・ハンド | 1999年6月28-30日 | アール・ドッジ(コロラド州) | ディーン・ワトキンス(アリゾナ) | 208 |
2004 | 34 | テネシー州フェアフィールド・グレイド | 2004年2月1日 | ジーン・アモンドソン(ワシントン) | リロイ・プレッテン(ミシガン) | 1,944 |
[34] | コロラド州レイクウッド | 2003年8月 | アール・ドッジ(コロラド) | ハワード・リディック(テキサス) | 140 | |
2008 | 35 | インディアナポリス、アダムスマークホテル | 2007年9月13-14日 | ジーン・アモンドソン(ワシントン) | リロイ・プレッテン(ミシガン) | 643 |
2012 | 36 | アラバマ州カルマン、ホリデイ・イン・エクスプレス | 2011年6月20-22日 | ジャック・フェリュー(ウエストバージニア) | トビー・デイビス(ミシシッピ) | 519 |
当選した人物
[編集]- シドニー・カッツ – フロリダ州知事(1917–1921)
- チャールズ・ハイラム・ランダル – カリフォルニア州下院議員(1911–12)およびアメリカ合衆国下院議員(カリフォルニア州第9選挙区)(1915–21)
- スザンナ・ソルター – カンザス州アーゴニア市長(1887): アメリカ合衆国最初の女性市長
- ジェイムズ・ヘッジ – ペンシルベニア州トンプソン郡区の租税査定人 (2002–2007)[13]。21世紀で唯一、禁酒党から公職に就いた人物。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Prohibition Party National Committee - History
- ^ “National Affairs: Men of Principle”. Time. (September 10, 1928) 2010年5月22日閲覧。
- ^ 禁酒主義を「ドライ」、反禁酒主義を「ウェット」と呼んでいた。
- ^ “National Affairs: In Cadle Tabernacle”. Time. (July 18, 1932) 2010年5月22日閲覧。
- ^ “Americana: Time to Toast the Party?”. Time. (November 7, 1977) 2010年5月22日閲覧。
- ^ Beyond Bush, Kerry & Nader Creative Loafing, October 13, 2004
- ^ The National Prohibitionist, 6/2003, p. 1
- ^ CO US President Race Our Campaigns, November 2, 2004
- ^ Earl F. Dodge Dies Ballot Access News, November 8, 2007
- ^ Former Dodge Faction Endorses Gene Amondson Our Campaigns, February 29, 2008
- ^ Prohibition fight goes to court Ballot Access News, March 1, 2006, Volume 21, Number 11
- ^ Internal Prohibition Party Battle Has Court Hearing on January 16 Ballot Access News, January 15, 2007
- ^ Prohibition Party Candidates
参考文献
[編集]- Andersen, Lisa, “From Unpopular to Excluded: Prohibitionists and the Ascendancy of a Democratic-Republican System, 1888–1912,” Journal of Policy History, 24 (no. 2, 2012), 288–318.
- James T. Havel, U.S. Presidential Candidates and the Elections (NYC: MacMillan Library Reference, 1996)
- S.B. Hinshaw, Ohio Elects the President: Our State's Role in Presidential Elections (Mansfield OH: Bookmasters, 1999)