福島城 (摂津国)
福島城 (大阪府) | |
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別名 | 福島砦 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 浦上村宗 |
築城年 | 享禄4年(1531年) |
主な改修者 | 三好三人衆 |
主な城主 | 浦上村宗、三好三人衆 |
廃城年 | 慶長19年(1614年)? |
遺構 | なし |
福島城(ふくしまじょう)は、摂津国西成郡福島(現在の大阪府大阪市福島区福島付近)にあった日本の城(平城)[1]。福島砦ともいう[2]。
概要
[編集]福島城があった福島は、中世初期の頃は大川尻(大川は淀川の上流部分[3])にあたる場所に形成された島だった[1]。福島荘という荘園があり、福島村という村名も中世から見られる[1]。福島は、西隣の野田村(西成郡鷺島荘の一部、現在の福島区野田付近)と共に、度々合戦の舞台となった[4]。
享禄4年(1531年)3月、細川晴元と細川高国の争いの中で、高国方の浦上村宗が野田・福島に陣を敷いているが[1][5][6]、この時、野田・福島に砦が築かれたとみられる[5]。
元亀元年(1570年)7月、織田信長と対立する三好三人衆が野田・福島の砦の補強を行って立て籠もっており(野田城・福島城の戦い)、『細川両家記』には、堀を掘って壁を築き、櫓を建てるなどしたことが記される[5][7]。また『信長公記』によると、野田・福島に籠城した三好三人衆方の軍勢は8,000人ほどだったといい、大規模な城砦が築かれていた様子がうかがえる[5]。
この年の9月、福島城から東に4キロメートルの位置にある本願寺が織田軍への攻撃を開始し、また朝倉氏と浅井氏の軍勢が京都に侵攻したことを受けて、織田軍は野田・福島方面から退いた[8]。しかし、天正4年(1576年)、福島城は織田軍の攻撃により、野田城ともども落城した[5]。その後、野田・福島の地は天正6年(1578年)の木津川口の戦いなどで、織田方の陣地として利用されたとみられる[5]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際には、大坂方の大野道犬が福島の五分一に棚楼(井楼か)を築き、野田の新家を守ったという(『西成郡史』)[5][9]。同年11月23日に、幕府軍の攻撃により新家が陥落し、福島も幕府方の手に落ちたとされる(野田・福島の戦い)[5][9]。この時の大野道犬について、福島城に拠っていたともいわれる[10][11]。
野田城については、「城ノ内」という字名が後世に残るなど、その所在地を知る手掛かりがあるが[5]、福島城についてはそうしたものはなく、江戸時代末期に成立[5]の『摂津名所図会大成』にも「其所詳ならず」と記されている[11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 1066–1067.
- ^ 谷口 2006, p. 94.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 219–220.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 954–955, 1066–1067.
- ^ a b c d e f g h i j 平井聖; 村井益男; 村田修三 編「野田城」『日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫』新人物往来社、1981年、189–191頁。全国書誌番号:81020173。
- ^ 今谷明『戦国三好一族』新人物往来社、1985年、83頁。ISBN 4-404-01262-4。
- ^ 塙保己一 編「細川兩家記」『群書類従 第拾參輯』経済雑誌社、1894年、645頁。全国書誌番号:20474265 。
- ^ 谷口 2006, pp. 95–97.
- ^ a b 大阪府西成郡役所 編『西成郡史 第1編 第2編 第3編 第4編 第5編』大阪府西成郡役所、1915年、259頁。全国書誌番号:43018646 。
- ^ 吉田勝 著「福島城」、鳥羽正雄ほか 編『日本城郭全集9』大類伸 監修、人物往来社、1967年、143頁。全国書誌番号:53001974。
- ^ a b 船越政一郎 編「摂津名所図会大成 巻之十」『摂津名所図会大成 其二』浪速叢書刊行会〈浪速叢書 第八〉、1928年、331頁。全国書誌番号:47025098 。