コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

私家版・ユダヤ文化論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
私家版・ユダヤ文化論
著者 内田樹
発行日 2006年7月20日
発行元 文藝春秋
ジャンル ユダヤ人論、ユダヤ文化論
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 新書
ページ数 248
コード ISBN 978-4-16-660519-4
[ ウィキデータ項目を編集 ]
テンプレートを表示

私家版・ユダヤ文化論』(しかばんユダヤぶんかろん)は、内田樹が著したユダヤ人論、ユダヤ文化論。第6回小林秀雄賞受賞作品。

概要

[編集]

2006年7月20日、文藝春秋より文春新書として刊行された。

本書のもとになったのは著者が神戸女学院大学で行った2004年度後期の講義ノートである。その講義ノートは『文學界』2005年1月号~9月号に連載された。

「私が本書で論じたのは、『なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか』という問題である。そのことだけが論じられている」と内田は本書の冒頭で述べている[1][注 1][注 2]

2007年8月30日、第6回小林秀雄賞に選ばれる(授賞式は10月5日)[4]。なお第6回の選考委員は加藤典洋関川夏央橋本治堀江敏幸養老孟司[注 3]の5名であった[5]

内容

[編集]
タイトル 取り上げられている主な人物・書物・事物
第1章 ユダヤ人とは誰のことか? ジェイコブ・シフ (1847 - 1920)、エドゥアール・ドリュモン (1844 – 1917)、クリスティーヌ・デルフィ (1941 - )、
ジャック・ラカン (1901 - 1981)、『ヴェニスの商人』 (ウィリアム・シェイクスピア著、中野好夫[注 4]岩波文庫、1939年)、
ユダヤ人問題についての省察』 (ジャン=ポール・サルトル著、1946年)
第2章 日本人とユダヤ人 中田重治 (1870 - 1939)、佐伯好郎 (1871 - 1965)、小谷部全一郎 (1868 - 1941)、酒井勝軍 (1874 - 1940)、
黒田礼二 (1890 - 1943)、四王天延孝 (1879 - 1962)、ルドルフ・シェーンハイマー (1898 - 1941)、
日猶同祖論、『エンサイクロペディア・ジュダイカ』 (1971~1972年初版)、
シオン賢者の議定書――ユダヤ人征服陰謀の神話』 (ノーマン・コーン著、内田樹訳、ダイナミックセラーズ、1986年)
第3章 反ユダヤ主義の生理と病理 オーギュスタン・バリュエル (1741 - 1820)、モレス侯爵 (1858 - 1896)、ジョルジュ・ブーランジェ (1837 - 1891)、
共産党宣言』 (カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス著、大内兵衛他訳、岩波文庫、1951年)、
ブーランジェ将軍事件アクシオン・フランセーズ
終章 終わらない反ユダヤ主義 ローレンス・トーブ (1936 - )、エマニュエル・レヴィナス (1906 - 1995)、モーリス・ブランショ (1907 - 2003)、
『トーテムとタブー』 (ジークムント・フロイト著)、「映画評論家町山智浩アメリカ日記」[注 5]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 内田は肩書き上フランス現代思想の専門研究者となっているが、「都立大時代の15年は『ユダヤ漬け』だったと言ってよいだろう」と自ら述べている[2]
  2. ^ また、別の本ではこうも述べている。「そのときは、『ユダヤ』に興味があった。なぜ反ユダヤ主義的暴力がこれほど世界史上繰り返されるのか? それは『何』に対する憎悪なのか? ある種の人間たちをこれほど『怒らせる』エートスというものがほんとうにあるのだとすれば、それは何なのか? 私は二十歳のころから、そのような問題に強い関心を抱くようになった(たぶん、私自身が組織的に『ある種の人間を死ぬほど怒らせる』ので、その理由を知りたかったのだと思う)」[3]
  3. ^ 養老孟司と内田の共著『逆立ち日本論』(新潮社、2007年5月)はユダヤ人論にページの多くが割かれている。
  4. ^ 岩波文庫版(1939年)『ヴェニスの商人』で中野好夫が記した解説が、本書で引用されている。以下は引用の一部分。「結局シェイクスピアはこうした民衆心理に迎合して、彼らユダヤ人の典型的人物たるシャイロックの残忍さを極度に誇張し、これに対してキリスト教徒が自負する慈悲を対立せしめ、最後に這々の体で退場する彼の後姿に向って、卑俗な看客の優越感の満足を狙ったものであることは、近ごろ流行する一部際物的軍事劇作者の心理と決して相距ること遠いものではない」[6]
  5. ^ 「映画評論家町山智浩アメリカ日記」は町山智浩のブログ。2005年2月8日付の記事「ユダヤ系ロックの殿堂」[7]を内田は講義や本書の参考文献とした。

出典

[編集]