秋元源彌 (1855年生の実業家)
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秋元 源彌[1](秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日(安政2年7月24日)[2] - 1915年(大正4年)7月26日[3])は、日本の商人(皮革商、近江屋主)[4]、会社役員。日本肥料取締役[5]。族籍は東京府平民[2][5]。
経歴
[編集]近江国坂田郡甲田村[1](のち滋賀県坂田郡鳥居本村、現彦根市甲田町)出身[6]。秋元平太郎の三男[2][4][5]。分家して一家を創立する[2][4]。僅かに旅費を持ち、1879年に単身で東京に来る[6]。
製皮事業が有利であることを予知し、2年間某商の徒弟となり、1881年に独立して近江屋商店を開業する[6]。「都下に於ける皮革商中の大商賈」と称され、直接国税約1000円を納める[4]。
所得税調査委員、東京製革業組合頭取などをつとめる[1]。長らく病気のところ薬石効なく1915年7月26日に死去する[3]。7月28日に出棺、浅草北清島町の長泉寺で葬送[3]。
人物
[編集]公共事業に従事することを好んだ[1]。赤十字社員である[1]。住所は東京市浅草区新谷町[2][3][5](現・東京都台東区)。
家族・親族
[編集]- 秋元家
- 妻・こま(1860年 - ?、滋賀、安田勝治郎の三女)[5]
- 二男・2代目源彌(1886年 - ?、前名・梅吉[2]、近江屋、皮革商、秋元皮革社長[7][8]) - 住所は東京市下谷区入谷町[7][8]。
- 男・喜市[2](1893年 - ?、秋元油肥製造所、肥料商[8]) - 住所は東京市下谷区上野桜木町[7][8]。
- 六男[2]
- 長女[2]
- 孫[2]
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『京浜実業家名鑑』609頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第4版』あ77頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月12日閲覧。
- ^ a b c d 『皮革世界 第9年(8)』22頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月21日閲覧。
- ^ a b c d 『大正人名辞典』551頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月12日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第3版』あ133 - 134頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月13日閲覧。
- ^ a b c 『浅草人物史』あ331頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月14日閲覧。
- ^ a b c 『大衆人事録 第3版』ア之部62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月13日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第11版 上』ア94頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 遠山景澄編『京浜実業家名鑑』京浜実業新報社、1907年。
- 後藤三岳『浅草人物史』実業新聞社、1913年。
- 『皮革世界 第9年(8)』皮革世界社、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』、帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937 - 1939年。