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秋元盛貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
秋元 盛貞
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 1560年8月27日永禄3年8月6日
墓所 法泉寺
官位 和泉守
幕府 室町幕府
主君 三好之長細川成之
森忠明の娘
櫛渕盛之、櫛渕成公
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秋元 盛貞(あきもと もりさだ)は、戦国時代武将。櫛渕城主。

生涯[編集]

金刺盛澄の子孫で信濃国上諏訪(現在の長野県諏訪市)で城主であった繁野貞國の孫とされるが、承久の乱の後に那賀郡櫛渕村(現在の徳島県小松島市櫛渕町)の新補地頭として補任した秋本二郎兵衛尉の子孫という説もある[1]

信濃国にある秋元の里を領地としていたが、武田信玄との戦いに敗れ、1502年文亀2年)に阿波国を訪れ三好之長の支援を受け、之長の姪で板野郡の大谷城主・森忠明の娘を正室にし、細川家家臣となって那賀郡櫛渕村と三倉村を領地とした[2][3]

1503年文亀3年)、那賀郡の大野城主の裏切りのため、同年8月13日に討伐に出て9月5日に攻め落とした。その恩賞で、那賀郡のうち立江・古毛・荒田野・上大野・下大野の5村を領地に加え、旧領と併せて三千貫(6千石)となり、騎馬士150騎、徒士300人を抱え、櫛渕城と支城の奥条城を居城とし、苗字をも櫛渕と改め、櫛渕村に諏訪・八幡・杉尾・天満宮・額明神の5社などを建立[4]。現在は五社の丸と言い伝えられているが、額明神の社は無くなっている[5]

1560年8月27日永禄3年8月6日)、病死する。墓所は徳島県小松島市櫛渕町法泉寺[3]

脚注[編集]

  1. ^ 繁野貞國は上諏訪にある某城主とされる。
  2. ^ 秋元の里の所在は不明。
  3. ^ a b 秋元和泉守盛貞の出自について”. 櫛渕史研究会. 2024年5月28日閲覧。
  4. ^ 平凡社,2000年『徳島県の地名』
  5. ^ 角川日本地名大辞典 36 徳島県』(1986年 ISBN 4040013603