秋山虎六
秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1952年〈昭和27年〉4月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。佐賀県佐賀市巨勢町出身。
経歴
[編集]旧制佐賀中学校から海軍兵学校に進学。1905年(明治38年)5月27日、翌28日にかけて日本海海戦に参戦する。同年11月28日、海軍兵学校33期卒業。同期に豊田貞次郎、豊田副武、有地十五郎、小野弥一、中村亀三郎など。
各軍艦勤務をへて海軍砲術学校高等科に入校。1912年(大正元年)英国出張。第一次世界大戦・日独戦争では英国と共に海軍陸戦重砲隊中隊長として、ドイツ帝国が清国から租借し、権益を持つ山東省青島の戦いで奮戦した。1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。同期に阿武清、有馬寛、出光万兵衛、山本五十六など。
海大卒業後、水上機母艦若宮、軽巡洋艦大井、神通で艦長を勤める。重巡洋艦加古艦長時の1929年(昭和4年)5月2日、英国王室グロスター公爵ヘンリー王子が乗艦するケント級重巡洋艦サフォークが来日した際、加古と古鷹で出迎えた。同年11月30日海軍航空本部教育部長に就任。1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮会議開催。1931年(昭和6年)9月満州事変勃発。
同年12月1日、海軍少将昇進。横須賀海兵団長時の1932年(昭和7年)には、第一次上海事変で上海共同租界の防衛、海軍青年将校により犬養毅総理大臣を射殺するというクーデター未遂事件(五・一五事件)が発生。1933年(昭和8年)横須賀防備隊指令に就任。1934年(昭和9年)軍司令部出仕、予備役、対英米戦争に反対し、第3次近衛内閣総辞職を機に1942年(昭和17年)退役[1]。
戦後の1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受ける[2]。
故郷の巨勢神社には彼の筆による戦没者鎮魂碑が建立されている。
親族
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『佐賀市史』
- 『歴史と旅 帝国海軍提督総覧』(1990年10月5日、秋田書店)