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稲葉通邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

稲葉 通邦(いなば みちくに、延享元年(1744年) - 享和元年4月25日1801年6月6日))は江戸時代後期の尾張藩士・国学者稲葉通経(籍翁)の子。字は君達。通称は喜蔵・喜三郎。

延享元年(1744年)、名古屋にて稲葉通経の子として生まれる。稲葉一鉄の子で徳川家康に仕えて後に徳川義直に付けられた稲葉方通から数えて7代目にあたる[1]宝暦11年(1761年)、家督を相続[1][2]

五味貞之から古流故実伝(五味流)を継承した岡田重定に師事して有職故実を学び、明和8年(1771年)に免許皆伝安永5年(1776年)に岡田から後継者に指名されて、古流故実伝の師範となった[1]。また、尾張藩においても天明6年(1786年)に御書物調御用、寛政2年(1790年)に御図書吟味役に任ぜられた[1][2]

藩の事業であった『神祇宝典』・『類聚日本紀』の校訂と『張州府志』・『尾陽志略』・『木曾志略』の改定事業を主導した他、大須真福寺にあった『将門記』や『和名類聚抄』の影写本の刊行などを行った[1][2]。また、河村秀根石原正明神村正隣と共に『令集解』の研究を行って『講令備考』を編纂し[1][2]、他にも『雫抄』などの著作がある[1][2]

光明を放つ『神祇令和解』

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通邦の文献研究では、寛政8年(1796年)に著された『神祇令和解[3]大宝養老、延暦各令文の異同を考証し、神祇令本文をほぼ復旧したもので[4][5]荷田春満在満冬満ら羽倉家の律令学と佐藤誠実の『律令考』に始まる現代律令学[6]との間にあって光明を放っていると高く評価されている[5]

ただし、通邦の事跡については当時の国学者の間で関心が高いとは言えなかった遺物の実証的研究を通じた考証を積極的に取り入れたことが評価されてきた[1][2]。また、大鎧漏刻など過去の遺物の復元・再現にも積極的に行った[1]松平定信も通邦を高く評価して、通邦の著書の図表などを『集古十種』に引用している[1]

享和元年(1801年)、名古屋にて死去。墓は名古屋市の徳林寺にある[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 鈴木「稲葉通邦」『国史大辞典』
  2. ^ a b c d e f 高橋「稲葉通邦」『日本歴史大辞典』
  3. ^ 伊能秀明. 稲葉通邦著『神祇令和解』について(一)-古代法研究史(1)-. p. 19. https://meiji.repo.nii.ac.jp/records/16595. 
  4. ^ 島. 神祇󠄀令研究史と今後の課題. p. 4. https://dl.ndl.go.jp/pid/4412130/1/6. 
  5. ^ a b 伊能秀明. 『神祇令和解』について(一). p. 20. 
  6. ^ 瀧川政次郎『佐藤誠実の律令学』1968年、1 - 3頁。 

参考文献

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  • 鈴木敬三「稲葉通邦」『国史大辞典 1』(吉川弘文館 1979年) ISBN 978-4-642-00501-2
  • 高橋章則「稲葉通邦」『日本歴史大事典 1』(小学館 2000年) ISBN 978-4-095-23001-6
  • 伊能秀明稲葉通邦著『神祇令和解』について(一)-古代法研究史(1)-」『明治大学刑事博物館年報』第17巻、1986年3月30日、19–38頁、ISSN 0389-5912 
  • 伊能秀明「稲葉通邦著『神祇令和解』について(二・完)-古代法研究史(2)-」『明治大学刑事博物館年報』第18巻、1987年3月30日、46–94頁、ISSN 0389-5912 
  • 瀧川政次郎佐藤誠實の律令学』国学院大学法学会〈国学院大学法学 第5巻 第3号〉、1968年https://dl.ndl.go.jp/pid/2689482/1/4 
  • 島 善高 (2000). 大倉精神文化研究所. ed. “神祇󠄀令研究史と今後の課題”. 大倉山論集 (大倉精神文化研究所) 46: 1 - 17. https://dl.ndl.go.jp/pid/4412130/1/4. 
  • 神道大系編纂会 編『神道大系 古典編 律令』神道大系編纂会、1987年https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12267033 

関連文献

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