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立花家橘之助 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代 立花家たちばなや 橘之助きつのすけ
初代 立花家(たちばなや) 橘之助(きつのすけ)
三遊亭圓朝一門定紋「高崎扇」
本名 石田 美代
生年月日 1868年9月13日
没年月日 (1935-06-29) 1935年6月29日(66歳没)
出身地 日本の旗 日本・江戸
死没地 京都市上京区
師匠 2代目三遊亭圓橘
弟子 初代立花家花橘
7代目朝寝坊むらく
橘家橘弥
2代目立花家花橘
三遊亭圓吉
3代目立花家千橘
立花家橘童
名跡 立花家橘之助(1873年 - 1935年)
活動期間 1873年 - 1924年
活動内容 浮世節
配偶者 初代全亭武生(前夫)
初代橘ノ圓(後夫)
所属 三遊派
主な作品
『たぬき』

初代 立花家 橘之助(たちばなや きつのすけ、1868年9月13日慶応4年7月27日[1] - 1935年6月29日)は、女流音曲師(女道楽)。本名:石田美代。

天才的な三味線の名手として知られる。おもに寄席で活躍。圧倒的な人気を誇る。落語家ではないのに、落語寄席の主任(トリ)を常時とり続けた。

異名として「女大名」「女公方」「淀君」「女帝」。

2代目三遊亭圓橘の弟子。大師匠は三遊亭圓朝

父の名は石田良周(よしちか)で、田安家に仕える幕臣であったという。

年譜

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墓所は神楽坂の清隆寺。法名: 清心院妙橘日周大姉。

門下には、初代立花家花橘(女性)、7代目朝寝坊むらく(のちの3代目三遊亭圓馬)、橘家橘弥(のちの5代目橘家小圓太)、2代目立花家花橘三遊亭圓吉(キツネウマ)、3代目立花家千橘らがいる。

エピソード

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  • 榎本滋民作・山田五十鈴主演の『たぬき』という舞台作品(大仏次郎の新歌舞伎たぬきとは別)は、この立花家橘之助を主人公としている。
  • アクシデントで三味線の演奏中3絃のうち2絃が切れてしまったことがあった。残りの1絃だけで、3絃ある時と全く変わらない演奏をして見せた。
    • 三味線のすべての絃が切れ、そのまま高座の上で素うたい(伴奏なしの独唱)で時間をつなぎながら、三味線をまったく見ずに一本の弦をつなぎ、何事もなかったかのように演奏再開させたという逸話もある(藤井宗哲『落語』)。
  • 東京の寄席では、通常色物はトリをとらない。あまりにも人気になった為演奏が終わると客が帰ってしまうため、彼女だけ例外的にトリを務めるようになった。
  • 本人自身は生涯、お金の勘定というものをしたことがなかった。
  • 寄席の割りを作る時、橘之助の食費など雑費をひいてから、各出演者に分配した(橘之助のギャラが大幅割増となる計算)。

派手な男女関係

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一流芸能人の常として、男女関係は派手であった。処女は初代中村鴈治郎に捧げたといわれ、大相撲常陸山谷右エ門との恋では巡業先までついていったほど。落語家との浮気も多く、弟子7代目朝寝坊むらく立花家左近、3代目三遊亭圓馬)とできていた(落語家が音曲師の弟子になるのはそもそも異例)。圓馬と、品川の4代目橘家圓蔵との三角関係は、新富座における落語家の歌舞伎総見において派手なけんかの末圓馬が圓蔵を殴打し、三遊派からも東京の芸界からも去るという悲しい幕切れとなった。他にも、愛人として旅館を与えられた落語家(古今亭志ん馬(本名金川利三郎))もいる。

しかし、対価(カネや仕事)のために男と付き合ったことはない。反対に、男に金を与えていた。年を取ってからの浮気相手は若い前座落語家たちとなった。情事の翌朝、男に向かって「お前気を残すんじゃァないよ(のぼせるんじゃないよ、本気じゃないよ)、これでお湯(銭湯)にでも行っておいで」と言い、小遣いを与えた(3代目三遊亭金馬『浮世断語』)。

関連項目

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脚注

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出典

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  • 『古今落語系図一覧表(文之助系図)』(日本芸術文化振興会、2004年)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 浮世節家元 立花家橘之助-(2016年5月14日閲覧)