立花統春
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 天正18年(1590年) |
改名 | 統春→宗盤(号)[1] |
別名 | 通称:次郎兵衛 |
主君 | 戸次道雪→立花宗茂 |
氏族 | 戸次氏→立花氏 |
父母 | 父:戸次親行、母:養孝院[2]の養女 |
妻 | 清田鑑信の娘 |
子 | 養子:統次 |
立花 統春(たちばな むねはる、永禄7年(1564年) - 天正18年(1590年))は、戦国時代の武将。豊後国の大名大友氏、その重臣戸次氏の家臣。大友氏庶流の戸次氏の一族。父は戸次氏重臣の戸次親行。
生涯
[編集]2歳の時に父が亡くなり、叔父の立花道雪に引き取られる。
天正9年(1581年)11月13日小金原・清水原・山東宗像表合戦[3][4]、
天正12年(1584年)8月18日~19日筑後田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い[8]と筑後遠征[9][10]、
天正14年(1586年)立花山城攻防戦、高鳥居城の戦い、天正15年(1587年)肥後国国人一揆討伐などで戦功を挙げ、鐘隈役職を与えられる。特に、高鳥居城の戦いで敵総大将・星野吉実を討ち取った戦功が高名を挙げ、主君・立花宗茂から感状をもらった[11][12][13][14][15][16][17][18][19][20]。
天正15年(1587年)、立花宗茂が筑後柳川13万石の領主となると、領内の高柳村50町を与えられる。肥後国人一揆の鎮圧作戦も参戦した[21]。 天正18年(1590年)、加藤清正の罪人を匿ったとして自害する[22][23]。
人物
[編集]射術に優れ、また「礼節を重んじる、沈勇にして高義の人」と伝えられる[24][18]。
義をもって自害したとき、その場にいる妻と11人の家臣たちも彼を追い殉死した[22][23]。
出典
[編集]- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)解説 131 藩史稿本類・士民ノ事績 立花三太夫家 P.25。
- ^ 立花道雪の継母
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (2) 戸次道雪・統虎(宗茂)連署感状写 前十三於清水原合戦之刻、被官歴々或分捕或被疵励粉骨候条、銘々遣状候、為御存知候、必配當之砌、一稜顕志可申候、恐々謹言、十一月廿四日 次郎兵衛尉(統春)殿 P.555。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三四 大友義統軍忠一見状 天正九年十一月十三日、於山東宗像表合戦之砌、戸次伯耆入道道雪家中之衆、或分捕高名、或被疵戦死之着到、令披見訖、P.351~357。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (3) 立花統虎(宗茂)・戸次道雪連署感状写 前之十六岩門庄久辺野切寄取崩候砌、其方別而依被砕手、郎従城井因幡入道、僕従源次郎被疵候、高名感悅無極候、仍以状申候、為御存知候、必以時分可賀之候、恐々謹言、四月廿八日 次郎兵衛尉(統春)殿 P.556。
- ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.128
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (7) 立花統虎(宗茂)感状写 今度於宰府表別而被砕手、被被疵候、御高名感悦無極候、必以時分一稜賀之可申候、恐々謹言、三月三日 次郎兵衛尉(統春)殿 P.556。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (9) 大友義統感状写 去月十九日至黒木表道雪越山之刻、以同心於途中遂防戦、別而依被励粉骨被疵之由候、殊其方僕従藤右衛門・與助分捕高名之由、忠義感入候、彌可励馳走是肝要候、恐々謹言、九月廿八日 立花次郎兵衛尉(統春)殿 P.557。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (8) 大友義統感状写 去年以来道雪以同陣、在々所々励軍忠、被抽馳走之由候、感悦候、必取鎮今度貞心之趣、何様一稜可賀申候、恐々謹言、九月六日 立花次郎兵衛尉(統春)殿 P.556。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (10) 大友義統感状写 道雪事去年以来道筑後表聢被遂在陣、於在々所々軍中之次第、無比類候、然処(平出)道雪死去之段、寔不及言語候、其方心底察入候、弥統江別而可励貞心事、可為喜悦候、必取鎮此節之忠賞可有餘儀候、連々辛労之段、先以染筆、猶小田原主膳正可申候、恐々謹言、十月廿八日 立花次郎兵衛尉(統春)殿 P.557。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (6) 立花統虎(宗茂)感状写 前廿五高鳥居取崩候刻、其方別而依被砕手、城井因幡入道・同僕従與介・内蔵丞被疵之由候、高名感悦候、必以時分一稜賀之可申候、恐々謹言、八月廿七日 次郎兵衛尉(統春)殿 P.556。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (5) 立花統虎(宗茂)書状写 前廿五高鳥居城取崩候刻、最前別而被砕手、城督星野中務被討捕候、殊被被槍疵候、乍案中御高名之次第、感悦無極候、為其賞莚田郡之内福光而免田鐘隈役職之儀差出之候、彌可被抽忠貞事可為肝心候、恐々謹言、八月廿八日 次郎兵衛尉(統春)殿 P.556。
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十一節 柳川人物小伝(一)立花統春 778~779頁
- ^ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)88 十時傳右衛門について P.179~180
- ^ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)91 十時傳右衛門と立花次郎兵衛 P.187~188
- ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』二十六 統虎、高鳥居・岩屋城を落とす P.82~84
- ^ 吉永正春『筑前戦国史』高鳥居の落城と吉塚地名の起こり p.286~290。
- ^ a b 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十七 立花次郎兵衛の礼節 P.131~132
- ^ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』星野兄弟を攻めるP.80~82
- ^ 『橘山遺事』 P.179~182
- ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十 統虎 有動氏を破る P.114~118
- ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十一節 柳川人物小伝(一)立花統春 779頁
- ^ a b 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十七 立花次郎兵衛の礼節 P.132~134
- ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十一節 柳川人物小伝(一)立花統春 778頁
参考文献
[編集]- 『筑後人物便覧』(福岡県文化會館、筑後史談會、昭和10年刊の複製、1935年)
- 『舊柳川藩志・下巻』(柳川山門三池教育會、渡辺村男、1957年:70頁)
- 『角川日本地名大辞典 40 福岡県』(『角川日本地名大辞典』編纂委員会、1988年、589頁)