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竹中重矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹中久作から転送)
 
竹中 重矩
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文15年(1546年
死没 天正10年6月6日1582年6月25日
別名 久作(通称)、重隆
主君 斎藤龍興織田信長
氏族 竹中氏
父母 父:竹中重元
兄弟 重行竹中重治重矩、彦八郎
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竹中 重矩(たけなか しげのり、天文15年(1546年) - 天正10年6月6日1582年6月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将美濃斎藤氏織田氏の家臣。竹中重元の子。通称は彦作久作。妻は中川重政の姉妹[1]

生涯

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天文15年(1546年)、斎藤氏家臣の竹中重元の子として誕生。兄に竹中重治がいる。

後世、竹中重治の智謀の代名詞と伝えられる永禄7年(1564年)2月の稲葉山城奪取の際には、稲葉山城に人質として入っていた重矩が病気を装い、兄・重治は、見舞いと称して安藤守就ら十数名とともに城内に入り、城番を油断させた隙に稲葉山城を占拠したといわれる。

永禄10年(1567年)、斎藤氏滅亡後は兄と共に織田氏に仕える。元亀元年(1570年)、姉川の戦いに参陣し、浅井氏の勇士・遠藤直経が織田軍の武将を装って信長の本陣に入り込み、信長の首を狙おうとしたが、旧知であった重矩がその正体を見破り、直経を討ち取る武功を挙げた。重矩は以前から「遠藤を討ち取る」と公言していたという[2]。ただし遠藤の首を打ったのは、重矩の後見として合戦に参加していた不破矢足である、とする話も伝わる。

天正7年(1579年)6月13日、播磨国の陣中で病死した兄・重治に代わり、同月22日、羽柴秀吉の与力として遣わされた[2]。天正10年(1582年)3月、信長に従い信濃国に出軍している[2]

しかし、同年6月に信長が本能寺の変で死去した後、美濃国不破郡表佐村で起こった郷士一揆と戦って戦死した[3]享年37。

演じた人物

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脚注

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  1. ^ 『織田系図』
  2. ^ a b c 信長公記
  3. ^ 武家事紀』、『寛永諸家系図伝

関連項目

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