竹田頴川
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竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1945年(昭和20年)9月9日)は、大正から昭和の終戦までを代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は加藤で、のち竹田。法諱は恵恂、道号は頴川。室号は古渡庵。愛知県葉栗郡北方村の出身。臨済宗建仁寺派管長(1931年-1945年)
竹田頴川 | |
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1878年 - 1945年 | |
生地 | 愛知県一宮市 |
没地 | 京都市 |
宗派 | 臨済宗 |
寺院 | 建仁寺 |
師 | 竹田黙雷 |
弟子 | 竹田益州、前川大道 |
著作 | 『興禅護国論』 |
生涯
[編集]1878年(明治11年)、現在の愛知県一宮市北方町に生まれる。1889年(明治22年)、一宮市木曽川町の寶光寺の速水精道和尚について得度。1906年(明治39年)、竹田黙雷が開単した建仁僧堂に掛搭。その後僧堂師家兼管長の黙雷に7年参禅した後、1912年(大正元年)に、頴川が得度した寶光寺の住職となった。さらに黙雷の建仁僧堂に通参精進して遂に、1921年(大正10年)黙雷より嗣法する。[1] 1928年(昭和3年)には建仁僧堂師家となった。そして1930年(昭和5年)には師の黙雷が遷化したため、頴川は1931年(昭和6年)臨済宗建仁寺派管長にも就任。その翌年の1932年(昭和7年)には、弟子の竹田益州が建仁僧堂を再暫暇したが、次いで1933年(昭和33年)に、頴川の法嗣となったことにより、建仁僧堂師家は血の繋がりはないものの養子となって、俗名として竹田姓が黙雷、頴川、益州と三代続くこととなった。(但し管長職は、頴川と益州の間に中村泰祐管長が入る事となる。)頴川は1945年(昭和20年)9月9日に遷化。世寿68。
法嗣弟子
[編集]著書
[編集]- 『興禅護国論』文化時報社、1938年。
脚注
[編集]- ^ 『昭和・平成 禅僧伝』臨済会編、春秋社、2010年。
関係先リンク
[編集]参考
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