笑福亭木鶴
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笑福亭 木鶴(しょうふくてい きかく)とは、上方落語の名跡。
「木鶴」の名は、3代目笑福亭松喬が、師匠の2代目松鶴と京都の寄席招福亭(後の笑福亭)に出演していた際、師匠と不和になり師匠のみが大阪へ戻ることとなったため、「松」の字を分けて、「
- 初代笑福亭木鶴 - 後の3代目笑福亭松鶴。
- 2代目笑福亭木鶴 - 本項にて記述。
2代目 | |
本名 | 岡田 文里 |
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生年月日 | 1837年 |
没年月日 | 1907年4月20日 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 初代桂文枝 2代目笑福亭松鶴 |
弟子 | 笑福亭小鶴 |
名跡 | 1.桂文里(? - 1882年) 2.2代目笑福亭木鶴(1882年 - 1907年) |
活動期間 | ? - 1907年 |
活動内容 | 芝居噺 怪談噺 噺家芝居 |
家族 | 笑福亭喜鶴 |
所属 | 桂派 互楽派 |
2代目笑福亭 木鶴(1837年 - 1907年4月20日)は本名: 岡田 文里。享年70?。
経歴
[編集]役者出身であったという。初め初代桂文枝の門下で文里を名乗る。1882年頃に2代目笑福亭松鶴の門下に移り、二代目木鶴を襲名。松鶴と三代目松鶴が去った後の京都・笑福亭で、四十年近く真打を張る。その前歴から芝居噺や怪談噺が得意で、名人と謳われた。
役者出身だけあって余興の噺家芝居でも常に主役を張り、立派な出来だったという。役者であった為か落語家芝居(しかしばい)の『絵本太功記』の光秀、『新口村』の忠兵衛、『寺子屋』の千代などの大役を演じ真打の看板を遺憾なく発揮した。晩年は大阪に出て互楽派に入るも、間もなく死去。
実子は笑福亭喜鶴。初代桂文我と仲が良く、その子を養子とし、自らの子と共に噺家四代目笑福亭鶴松にしたが、どちらも大成しなかったという。
弟子
[編集]出典
[編集]- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』 平凡社、1989年
- 『上方はなし』第28集 「私の名について」(二代目笑福亭福圓)
- 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)