林家木鶴
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林家 木鶴(はやしや きかく)は、上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。なお「木鶴」の名跡では、他に笑福亭木鶴がある。
初代
[編集]初代 | |
生年月日 | 不詳年 |
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没年月日 | 不詳年 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 初代林家正三 |
活動内容 | 上方落語 |
初代林家正三の門下。『落語系圖』には「初代正三の實兄なり」「京師の名を得たる達人なり」とある。活躍時期は幕末から明治初期に掛けてと推測される。唄本を残している。1886年の新聞記事に林家木鶴が十三回忌を迎えたと記事があるが、この記事が初代なのか2代目なのかそれとも別の人物なのかは不明。初代とすると1876年まで存命だったことになる。
2代目
[編集]2代目 | |
本名 | 林家 岩太郎 |
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生年月日 | 不詳年 |
没年月日 | 1895年8月15日 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 初代林家木鶴 3代目三笑亭可楽 初代都喜蝶 |
名跡 | 1. 林家木雀 2. 三笑亭馬長 3. 2代目都喜蝶 4. 2代目林家木鶴 |
活動期間 | ? - 1895年 |
活動内容 | 上方落語 |
2代目 林家 木鶴(? - 1895年8月15日?)は、本名: 林家岩太郎。享年不詳。
初代木鶴の門下。初め木雀と名乗ったが、3代目三笑亭可楽(元翁屋さん馬、「狂死の可楽」)の門下に移り馬長、その後初代都喜蝶の門下に移り2代目都喜蝶となり、2代目木鶴を襲名した。初代と同様に、活躍時期は幕末から明治初期と推測される。
晩年は大阪天満宮の側で寄席(「林家席」とも「龜の池」とも呼ばれた)を開き、席亭となる。1895年8月15日に流行したコレラで、妻と共に死去したという。
墓地は大阪四天王寺(壽法寺)にある。
2代目桂文三は一時養子で3代目木鶴を名乗った。
3代目
[編集]- 3代目林家木鶴 - 後の2代目桂文三。
4代目
[編集]4代目 | |
生年月日 | 不詳年 |
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没年月日 | 1922年1月18日 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 桂仁左衛門 5代目林家正三 |
名跡 | 1. 桂仁太郎 2. 5代目林家小正三 3. 4代目林家木鶴 |
活動期間 | ? - 1922年 |
活動内容 | 上方落語 |
所属 | 桂派 互楽派 浪花落語反対派 |
4代目 林家 木鶴(? - 1922年11月18日)は、本名、享年とも不詳。
明治中期頃の生まれ、明治末に桂仁左衛門の門下で仁太郎を名乗るが、間もなく師匠が死去し、所属していた桂派も瓦解。
後に5代目林家正三の門下となり、互楽派に加入。大正初期に5代目小正三を経て、1919年、20年ころに4代目木鶴を襲名したが、所属の反対派が吉本興業・花月派へと急成長してゆく矢先に死去した。
十八番は『紙屑屋』であったと伝える。
出典
[編集]- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、1989年、ISBN 458212612X)
- 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)