第一号型敷設特務艇
敷設特務艇 第一号型 | |
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引渡し後出港中の第一号敷設艇 (1942年1月28日、浦賀船渠) | |
基本情報 | |
種別 | 敷設艇 → 敷設特務艇 |
建造所 | 浦賀船渠川間分工場[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 4隻 |
要目 | |
排水量 |
基準 215英トン[2] 公試 計画 288トン[3] 現状 297.430トン[3] 満載 計画 299.365トン[3] 現状 308.365トン[3] |
全長 | 35.105m[2] |
水線長 | 30.300m[2][注釈 1][注釈 1] |
垂線間長 | 31.500m[2] |
最大幅 | 6.156m[2] または 6.500m[4] |
深さ | 3.100m[2] |
吃水 |
公試平均 計画2.375m[2] 同 現状2.433m[2] 満載平均 計画2.447m[2] 同 現状2.500m[2] |
主機 | 低速(または中速)400馬力ディーゼル機関 1基[注釈 2] |
推進器 | 1軸 x 300rpm、直径1.800m[5] |
出力 | 400馬力[2] |
速力 | 9.5ノット以上[2] |
航続距離 | 1,500カイリ / 9.5ノット[2] |
燃料 | 重油 13.1トン[2] |
乗員 | 計画乗員 63名[6] |
兵装 |
8cm単装高角砲1門[8] 13mm連装機銃1基[8] 機雷投下軌道2本[9] 爆雷投下軌道2本[9] 九三式機雷40個[9][注釈 3] もしくは大掃海具1組 (九五式[9])爆雷16個[10] |
搭載艇 | 6m通船1隻[7] |
ソナー | 吊下式K型水中聴音機[11] |
第一号型敷設特務艇 (だいいちごうがたふせつとくむてい)は、日本海軍の敷設特務艇。同型艇4隻。従来型の補助として建造された漁船タイプの敷設艇で漁敷とも呼ばれる。
計画
[編集]第一号型掃海特務艇と同時に、同じ漁船形式の敷設艇が計画され、昭和15年度の第二次追加計画(マル臨計画)で4隻が計画された[1]。予算は第76回帝国議会で昭和16年度臨時軍事費として成立、雑船の漁船型敷設艇として1隻2,100,000円、4隻で計8,400,000円だった[12]。仮称艦名は第257号艦から第260号艦[13]。計画時は雑役船だったが、建造中に敷設艇となった[14]。
測天型敷設特務艇の補助として機雷はその約1/3の40個を搭載[1]、しかし従来の軍港防備用ではなくて前進基地への進出を考慮して遠洋性能を重視した[10]。このためタイプシップを農林省160噸鰹鮪船相洋丸にとった[15]。
船型
[編集]船体は遠洋漁船と大きな違いはなく、構造も逓信省の規定に準じて設計された[1]。ただ敷設任務のために漁船とは以下のような違いがあった。船首は訓練時の機雷の揚収の為に前方へ鋭く張り出し、同様の理由で舷側の揚収部分にはフレアが無く、そのため船首舷側部分にはナックルが付けられた[16]。また船体後部は機雷敷設の為に大きく張り出し、敷設軌道を左右に1組ずつ装備した[1]。船体幅は軌道上に機雷を搭載した場合に乗員が通行できる最小の幅になっていた。
漁船では船艙の相当する船橋前方の部分は前部が兵員室、後部が機雷庫に当てられた[16]。前部マストには1.5トンデリック1本が装備され、機雷庫への機雷の取り入れ、取り出しと訓練時の機雷の揚収用も兼用した[16]。また機雷を搭載しない場合は、爆雷と大掃海具が搭載可能なような汎用艇となっていた[10]。
兵装は前部に8cm単装高角砲1門を装備したが、この程度の船型としては重武装だった[10]。13mm連装機銃は煙突後方に装備した。大戦中に単装機銃が増備され、13mm機銃は25mm機銃に換装されたとも言われる[4][14]。
運用
[編集]竣工時は特務艇中の敷設艇籍(第一号型[17])だったが、1944年(昭和19年)に新設の敷設特務艇(第一号型[18])へ類別変更された。大戦中は南方へ進出、3隻が戦没した。そのうち2隻が触雷による喪失だったのは皮肉であった[10]。太平洋戦争では敷設任務より対潜任務のほうが強く求められ、建造は4隻にとどまり[10]、終戦時に1隻が残存した。
同型艦
[編集]- 第一号敷設特務艇
- 1942年2月28日竣工(浦賀)- 当初の艇名は第一号敷設艇[19]。1944年2月1日敷設特務艇に類別変更し、第一号敷設特務艇に改称[18]。1945年3月27日スマトラ島メダン沖で触雷沈没。1947年5月3日除籍。
- 第二号敷設艇
- 1942年4月10日竣工(浦賀)- 1942年12月31日 スラバヤにて触雷沈没。1943年3月20日 除籍。
- 第三号敷設特務艇
- 1942年6月30日竣工(浦賀)- 当初の艇名は第三号敷設艇[20]。1944年2月1日敷設特務艇に類別変更し、第三号敷設特務艇に改称[18]。終戦時はトラックに所在。1947年5月3日 除籍。
- 第四号敷設特務艇
- 1942年8月20日竣工(浦賀)- 当初の艇名は第四号敷設艇[21]。1944年2月1日敷設特務艇に類別変更し、第四号敷設特務艇に改称[18]。1944年11月20日ニコバル諸島にて英潜水艦タリホーの雷撃により戦没。1947年5月3日除籍。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b #日本海軍全艦艇史主要艦艇要目表p.57では水線長31.50m、垂線間長30.30mとしている。
- ^ #日本海軍全艦艇史p.57、#日本補助艦艇物語pp.390-391では中速400馬力ディーゼルとしている。一方#昭和造船史1pp.796-797、#日本海軍護衛艦艇史p.110では低速400馬力ディーゼルとなっている。
- ^ #日本補助艦艇物語pp.391-392では機雷45個となっている。
出典
[編集]- ^ a b c d e #海軍造船技術概要p.669
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.3。
- ^ a b c d 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.24。
- ^ a b #終戦時の日本海軍艦艇p.180
- ^ 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.15。
- ^ 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.17、准士官以上3人、下士官兵60人。
- ^ 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.19。
- ^ a b 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.5。
- ^ a b c d 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.7。
- ^ a b c d e f #日本海軍護衛艦艇史p.110
- ^ 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」p.13。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.805
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.810
- ^ a b #写真日本の軍艦第14巻p.98
- ^ #海軍造船技術概要p.671
- ^ a b c #海軍造船技術概要p.670
- ^ 昭和16年8月5日付 内令第902号。
- ^ a b c d 昭和19年2月1日付 内令第272号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070194400 で閲覧可能。
- ^ 昭和16年8月5日付 達第246号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070110700 で閲覧可能。
- ^ 昭和16年12月17日付 達第391号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070113600 で閲覧可能。
- ^ 昭和17年1月20日付 達第18号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070114100 で閲覧可能。
参考文献
[編集]- 『日本海軍護衛艦艇史』 世界の艦船 1996年2月号増刊 第507集(増刊第45集)、海人社、1996年2月。ISBN 4-905551-55-2。
- COMPILED BY SHIZUO FUKUI (1947-04-25). JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR. ADMINISTRATIVE DIVISION, SECOND DEMOBILIZATION BUREAU(COMPILED BY 福井静夫『終戦時の日本海軍艦艇』第二復員局、1947年04月25日)
- 福井静夫『日本補助艦艇物語』 福井静夫著作集第10巻、光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第14巻 小艦艇II』光人社、1990年9月。ISBN 4-7698-0464-4。
- 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」