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笹本寅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
笹本寅(1955年ごろ)

笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日[1] - 1976年11月20日[2])は、日本の作家

佐賀県唐津市生まれ[3]。唐津中学中退後[3]、1921年荏原中学を卒業し[4]1924年頃、東洋大学中退[5]。唐津日日新聞社を経て[3]1925年春秋社に入社[5]中里介山大菩薩峠』の刊行(角川文庫版の巻末解説も担当)や、八住利雄[6]担当する。 1931年時事新報社入社[5]、文芸部・社会部に在籍[5]した後1934年退社[5]、文芸主任だった[7]。 1936年、週刊朝日に「海舟と按摩」を発表し作家デビュー[8]1939年海音寺潮五郎らと同人誌『文学建設』を創刊[5]し、1941年「会津士魂」で第1回野間文芸奨励賞を受賞する。戦後は中里介山についての書籍を出版するなどした。 1976年11月20日9時53分、八王子市柚木病院で脳動脈硬化症により74歳で死去[9]

親族

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  • 次兄は笹本甲午[10][11]
  • 後述のように義姉が木村時子。
  • 笹本の妻つるは佐野周二の姉にあたる[12]

笹本甲午

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  • 1894年5月21日-1921年8月21日、脳脊髄膜炎で死去、早稲田大学英文科卒[13]
  • 森鷗外に翻訳の相談をしている[14]
  • 有楽座時代の水谷八重子は毎晩出番を待っていると眠くなってうとうとしたが、甲午に起こしてもらっていた[15]
  • 1916年、高松榮子が弟子入りする[16]
  • 1918年木村時子と結婚する[17][18]
  • 笹本甲午と木村時子たちをモデルにした『浅草の灯』という劇が後に制作された[17]
  • 甲午は1921年に個人の資格で国立劇場設立請願書を貴族院全議員に発送している[19]鳩山一郎も賛同した[20]
  • 甲午は浅草に来てまもなく急死、長男の嵐[21]は産経時事(産経新聞編集局とも[17])の記者となった[22]
  • 片倉工業株式会社社長の安田義一の父の友人が笹本甲午だった[23]
  • 花柳章太郎は友人笹本甲午を通じて、新劇の若手に何となく親近感を抱いていて、その笹本を通じて笹本同様早稲田大学の沢田正二郎と知り合った[24]
  • 沢田とは劇の将来について論じあい、沢田からは「笹本君を通じて、君と親しく話してみたいと思っていた。」と言われた[25]
  • 文芸協会演劇研究所三期生の笹本も卒業後は花柳同様喜多村一門に入った。[26]
  • 里見明は浅草オペラ時代に二代目笹本甲午と呼ばれた[27]

著書

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  • 文壇郷土誌 プロ文学篇 公人書房 1933
  • 文壇手帖 橘書店 1934
  • 維新の蔭 八紘社 1939
  • 会津士魂 博文館 1941 のち春陽堂文庫、のち河出書房
  • 小説葉隠 大日本雄弁会講談社 1941.12
  • 士法兵法 室戸書房 1942
  • 刀痕菩薩 春陽堂文庫 1943
  • 渡辺崋山 芸術の殉教者 偕成社 1954 (偉人物語文庫)
  • さむらい物語 逸話の泉 河出新書 1955
  • 化粧伝奇 河出新書 1955
  • 中里介山 大菩薩峠 河出書房 1956
  • 鎮西町史 鎮西町史編纂委員会 1962[28]
  • 文壇人物誌 冬樹社 1980.10

脚注

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  1. ^ 「会津士魂」河出書房、巻頭著者プロフィール
  2. ^ 日本古書通信1977年1月号29~30
  3. ^ a b c 「会津士魂」河出書房、巻頭著者プロフィール
  4. ^ 書物展望1936年12月号90~91「思ひ出す人々」
  5. ^ a b c d e f 大衆文学大系29 「会津士魂」笹本寅巻末プロフィール、1973年、講談社
  6. ^ シナリオ1983年3月号76~77頁
  7. ^ 別冊新聞研究、日本新聞協会
  8. ^ 「出版ニュース」1976年12月号46ページ
  9. ^ 「出版ニュース」1976年12月号46ページ
  10. ^ 「書物展望」1936年12月号89~90頁「思ひ出す人々」二
  11. ^ 有島武郎全集 第10巻1922年の項、叢文閣
  12. ^ 「eg」、経済産業調査会、1991年4月号16~17頁「E・エコー」
  13. ^ 「日本歌劇俳優名鑑 改訂増補版」60頁、活動倶楽部社
  14. ^ 鴎外全集 著作篇 第32巻、岩波書店、大正3年2月27日の項
  15. ^ 「東宝」1935年11月号36-37頁「私と有樂座」
  16. ^ キネマ旬報1980年増刊12月31日号「日本映画俳優全集女優」高松榮子の項目
  17. ^ a b c 新劇1964年8月74~81頁「新劇貧乏物語」
  18. ^ 『大正演劇研究』第9巻、大正演劇研究会2005年、72頁「トスキナ伝説」
  19. ^ 「わらいえて : 芸能100年史」永六輔、朝日新聞社、大正の項
  20. ^ https://kotobank.jp/word/-1324266
  21. ^ 「浅草オペラの生活」1967年、108~110頁 雄山閣出版
  22. ^ 喜劇人回り舞台 : 笑うスター五十年史、学風書院、1958、47~49頁「カルメン女優の色ざんげ」
  23. ^ 実業の日本 1959年6月号18~19頁「座談会 / 片倉三平 永田雅一 安田義一」
  24. ^ がくや絣、美和書院、花柳章太郎著  12~13頁
  25. ^ がくや絣、美和書院、花柳章太郎著  16~17頁
  26. ^ がくや絣、美和書院、花柳章太郎著  28~29頁
  27. ^ キネマ旬報増刊1979年10月23日号「日本映画俳優全集男優編」248頁
  28. ^ 日本歴史1965年3月号p95-98

関連項目

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  • 小林多喜二 小林多喜二の遺体の写真は笹本が連れてきた写真班に小林を丸裸にした写真を撮らせ[1]、戦時中笹本が土に埋めて守り抜いたという[2]
  • 大久保道舟 大久保が春秋社から刊行した「道元禅師全集」の担当だった[3]
  • 山田清三郎 満洲新聞社社長の和田(木暮実千代の夫)と山田を引き合わせて山田を春秋社に入社させた[4]
  • 宮崎丈二 笹本が宮崎を春秋社社長と引き合わせた[5]
  • 三田村鳶魚 機関紙「江戸読本」の編集を笹本が担当[6]
  • 佐野周二戦時中は義兄の笹本寅に戦地から航空便で手紙を送っていた[7]
  1. ^ 「文化評論」1967年4月号160~161ページ
  2. ^ 「文化評論」1983年12月号192~193
  3. ^ 「ちくま」1969年6月号筑摩書房「道元と私」大久保道舟、24~25ページ
  4. ^ 「社会文学」創刊号「山田清三郎と「プロレタリア文学」」
  5. ^ 「新潮」1989年8月号「ノンキが来た」82~83ページ
  6. ^ 「富士」1952年6月号22~23ページ
  7. ^ 婦女界1939年3月号128ページ「笹本寅」