筑豊鉄道 (2代)
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筑豊鉄道線 | |
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概要 | |
現況 | 廃止 |
起終点 |
起点:香月駅 終点:野面駅 |
駅数 | 3駅 |
運営 | |
開業 | 1915年1月1日 |
廃止 | 1954年10月1日 |
所有者 | 鞍手軽便鉄道→帝国炭業→九州鉱業→筑豊鉱業鉄道→筑豊鉄道(2代) |
使用車両 | 車両の節を参照 |
路線諸元 | |
路線総延長 | 3.8 km (2.4 mi) |
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) |
電化 | 全線非電化 |
停車場・施設・接続路線(廃止当時) | |||||||||||||||||||||||||||
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筑豊鉄道(ちくほうてつどう)は、かつて福岡県北九州市に存在した鉄道事業者である。
1915年(大正4年)に鞍手軽便鉄道が開業させた鉄道院香月線の香月駅から分岐して野面(のぶ)駅に至る3.8kmの鉄道路線を、帝国炭業、九州鉱業、筑豊鉱業鉄道を経て継承した会社である。1954年(昭和29年)に路線は廃止となった。
路線データ
[編集]廃止時点
歴史
[編集]鞍手軽便鉄道は木屋瀬炭鉱の産出する石炭を輸送することを目的として当時電気王と呼ばれた才賀藤吉が1910年(明治43年)9月に出願したものである。この木屋瀬炭鉱は国鉄筑豊本線の筑前植木駅とは約1里の距離であったが遠賀川に阻まれており、木屋瀬採炭株式会社では石炭の輸送を野面の積場から笹尾川を下り、中間から堀川を通って、洞海湾に入り、若松港から荷揚げしていた。1908年(明治41年)になって香月線が開通したのであるが香月駅までの輸送手段は無かった。そこで木屋瀬炭鉱の輸送手段の近代化を計るべく鉄道建設を才賀がひきうけることになったのであった[1]。 発起人7人のうち才賀を除く6名は才賀の拠点の一つである愛媛県松山市在住で本社も当初は松山市におかれた[2]。工事は才賀電機商会が請負い、蒸気機関車も才賀電機商会が伊勢鉄道用に輸入したもののキャンセルされ保管していた車両を流用した。
年表
[編集]- 1911年(明治44年)
- 1915年(大正4年)
- 1917年(大正6年)8月29日 : 木屋瀬駅から鞍手郡頓野村までの鉄道敷設免許状下付[6]。1924年に失効 [7] 。
- 1921年(大正10年)12月20日 : 帝国炭業[8][9]が鞍手軽便鉄道を合併[10]。
- 1929年(昭和4年)9月4日 : 帝国炭業から九州鉱業に香月 - 野面間の鉄道事業を譲渡[11] 。
- 1935年(昭和10年)6月19日 : 九州鉱業から筑豊鉱業鉄道に香月 - 野面間の鉄道事業を譲渡[12] 。
- 1950年(昭和25年)12月8日 : 旅客運輸営業休止認可(香月-野面間)[13]
- 1952年(昭和27年)8月6日 : 筑豊鉱業鉄道から筑豊鉄道に香月 - 野面間の鉄道事業を譲渡。
- 1954年(昭和29年)10月1日 : 香月 - 野面間廃止。
駅一覧
[編集]香月駅 - 木屋瀬駅 - 野面駅
接続路線
[編集]輸送・収支実績・車両
[編集]年度 | 乗客(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) | その他益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) | 蒸気機関車 | 客車 |
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1915 | 30,959 | 74,577 | 17,627 | 8,917 | 8,710 | 15,412 | 1 | 1 | ||
1916 | 39,159 | 108,253 | 23,748 | 15,794 | 7,954 | 雑損126,134 | 15,166 | 2 | 1 | |
1917 | 47,056 | 138,220 | 24,736 | 14,214 | 10,522 | 7,494 | 2 | 1 | ||
1918 | 57,981 | 183,399 | 35,931 | 26,305 | 9,626 | 7,824 | 2 | 1 | ||
1919 | 85,542 | 245,809 | 57,167 | 43,226 | 13,941 | 9,528 | 2 | 1 | ||
1920 | 96,606 | 269,485 | 75,654 | 66,081 | 9,573 | 7,631 | 2 | 2 | ||
1921 | 76,073 | 281,927 | 90,055 | 69,296 | 20,759 | 2 | 2 | |||
1922 | 100,829 | 496,748 | 155,980 | 73,220 | 82,760 | 2 | 2 | |||
1923 | 106,564 | 505,937 | 150,525 | 54,527 | 95,998 | 炭業5,971,606 | 炭業6,084,223 | 3 | 2 | |
1924 | 98,321 | 485,061 | 143,165 | 42,960 | 100,205 | 他事業欠損647,773 | 3 | 2 | ||
1925 | 97,002 | 458,887 | 137,360 | 46,391 | 90,969 | 石炭1,114,060 | 3 | 2 | ||
1926 | 86,053 | 349,241 | 106,356 | 48,209 | 58,147 | 石炭11,500 | 2 | 2 | ||
1927 | 89,725 | 356,109 | 107,034 | 47,693 | 59,341 | 2 | 2 | |||
1928 | 97,963 | 391,915 | 118,172 | 43,231 | 74,941 | 2 | 2 | |||
1929 | 84,514 | 326,146 | 47,318 | 18,377 | 28,941 | 石炭採掘販売1,671,159 | 2 | 2 | ||
1929 | 51,971 | 22,701 | 29,270 | 石炭採掘販売29,958 | ||||||
1930 | 61,310 | 275,302 | 88,187 | 35,178 | 53,009 | 石炭採掘販売21,495 | 2 | 2 | ||
1931 | 52,390 | 204,878 | 66,950 | 30,275 | 36,675 | 鉱業15,094 | 償却金31,028 | 2 | 2 | |
1932 | 38,775 | 228,177 | 73,713 | 30,746 | 42,967 | 2 | 2 | |||
1933 | 33,851 | 190,570 | 61,092 | 33,465 | 27,627 | 2 | 2 | |||
1934 | 37,191 | 235,058 | 75,746 | 34,002 | 41,744 | 鉱山65,633 | 2 | 2 | ||
1935 | 34,318 | 253,003 | 81,374 | 25,669 | 55,705 | 鉱山41,717 | 2 | 2 | ||
1936 | 41,480 | 272,426 | 88,493 | 25,266 | 63,227 | 鉱山52,743 | 2 | 2 | ||
1937 | 47,560 | 279,862 | 91,160 | 27,616 | 63,544 | 鉱山10,410 | 鉱山3,255償却金20,000 | 2 | 2 | |
1939 | 71,230 | 296,523 | ||||||||
1941 | 85,234 | 250,932 | ||||||||
1943 | 45,450 | 126,993 | ||||||||
1945 | 64,201 | 53,281 | ||||||||
1949 | 54,174 | 101,305 | ||||||||
1952 | 44,289 | 4,070,223 | 4,292,780 | ▲22,257 |
- 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報各年度版
- 1929年度は帝国炭業と九州鉱業両社で計上
車両
[編集]蒸気機関車
[編集]- 1(初代) : 1912年(明治43年)、独オーレンシュタイン・ウント・コッペル製8t級の車軸配置0-4-0(B)のウェルタンク機関車(製造番号5296)。1926年(大正15年)4月、川崎造船所に譲渡。
- 2(初代) → 1(2代) : 1917年(大正6年)入線。1878年(明治11年)、イギリスのシャープ・スチュアート製19t級の車軸配置0-4-0(B)のサドルタンク機関車(製造番号2560)。南海鉄道15を譲り受けたものだが、もとは官営釜石鉄道が導入した軌間838mmの機関車3両のうちの1両であった。初代1の譲渡により改番。1954年(昭和29年)の廃線まで在籍した。
- 3 → 2(2代) : 1923年(大正12年)、独オーレンシュタイン・ウント・コッペル製26t級の車軸配置0-6-0(C)のタンク機関車(製造番号10419)。初代1の譲渡により改番。1954年の廃線まで在籍した。
客車
[編集]木製2軸車2両が在籍したが詳細不明。 開業時にハフ1(関西車輛製)と大正9年度に鉄道院フハ3119[14]を譲受けフハ2とした。
脚注
[編集]- ^ 木屋瀬採炭の取締役は広島電燈社長の高束康一と広島呉電気取締役の沢原精一であり才賀とは面識があったと思われる
- ^ a b 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年5月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年1月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道駅名改称」『官報』1915年1月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1917年8月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道免許失効」『官報』1924年6月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第29回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 鈴木商店系「鈴木関係の優良会社は守立てる」『大阪朝日新聞』1927年4月10日(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)
- ^ 7月15日認可『鉄道省鉄道統計資料. 大正10年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道譲渡」『官報』1929年8月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道譲渡」『官報』1935年6月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「運輸省告示第11号」『官報』1951年1月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 客車略図形式3054
参考文献
[編集]- 大谷博孝「鞍手軽便鉄道ものがたり」『レイル』No.53
- 三木理史「局地鉄道の普及と「指導者集団」-才賀電機商会の事業展開からの考察-」『近代日本の地域交通体系』大明堂、1999年、288-291頁
- 和久田康雄 『私鉄史ハンドブック』 電気車研究会、1993年、171頁
- 『私鉄史ハンドブック』正誤表 (PDF)
外部リンク
[編集]- 『官報』1919年11月22日(国立国会図書館デジタル化資料)九州鉱業の株式募集