米倉昌明
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝元年(1673年) |
死没 | 元禄15年4月25日(1702年5月21日) |
改名 | 彦次郎(幼名)、昌明 |
別名 | 忠右衛門(通称) |
戒名 | 観性院殿覚海澄円大居士 |
墓所 | 東京都港区西麻布の長谷寺 |
官位 | 従五位下丹後守、長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 下野皆川藩主 |
氏族 | 米倉氏 |
父母 | 米倉昌尹、金森重義娘 |
兄弟 | 昌明、昌仲、女子 |
妻 |
須田為景娘 筒井忠助娘 |
子 |
昌照、昌行、武田信常室、小堀政房正室ら 松平忠周継室 |
米倉 昌明(よねくら まさあきら)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。下野国皆川藩2代藩主。六浦藩米倉家2代。官位は従五位下・丹後守、長門守。
生涯
[編集]延宝元年(1673年)、初代藩主・米倉昌尹の長男として誕生。天和2年(1682年)7月11日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、天和3年(1683年)9月25日に御書院番、元禄5年(1692年)3月23日に小十人頭、元禄9年(1696年)3月29日に詰衆並となる。同年12月22日に叙任する。
元禄12年(1699年)、父の死去により家督を継ぐ。この際、弟・昌仲(忠直)に3000石を分与している。
元禄15年(1702年)4月25日、死去。享年30。跡を次男・昌照が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女
養子