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粟田口良教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
粟田口 良教
時代 鎌倉時代中期
生誕 元仁元年(1224年
死没 弘安10年7月4日1287年8月14日
別名 藤原良教
官位 従一位大納言按察使兵部卿
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 近衛家庶流粟田口家
父母 父:藤原基良、母:藤原隆雅
兄弟 良教藤原房教藤井教嗣
藤井嗣房長教教経経良
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粟田口 良教(あわたぐち よしのり)は、鎌倉時代中期の公卿藤原良教とも[1]権大納言藤原基良の子。官位従一位・大納言、按察使兵部卿

経歴

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以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の記事に従って記述する。

  • 安貞2年(1228年)8月21日、叙爵。同年9月6日、侍従に任ぜられ、12月9日には従五位上に昇叙、12月14日には禁色を許された。
  • 寛喜3年(1231年)10月20日、正五位上に昇叙。
  • 貞永元年(1232年)1月30日、遠江権介を兼ねる。同年12月24日、従四位下に昇叙し侍従は元の如し。
  • 天福元年(1233年)12月12日、従四位上に昇叙。
  • 嘉禎元年(1235年)10月8日、正四位下に昇叙。
  • 嘉禎2年(1236年)6月13日、従三位に叙される。侍従は元の如し。
  • 嘉禎3年(1237年)1月29日、右中将に任ぜられる。
  • 嘉禎4年(1238年)1月5日、正三位に昇叙。同月22日、駿河権守を兼ねる。
  • 仁治2年(1241年)6月7日、参議に任ぜられ、右中将と駿河権守は元の如し。同年10月13日、左衛門督に転じる。
  • 仁治3年(1242年)3月7日、権中納言に任ぜられ、左衛門督は元の如し。同年7月に左衛門督を辞したか。
  • 寛元元年(1243年)2月2日、帯剣を許される。
  • 寛元2年(1244年)6月13日、中納言に転正。
  • 建長元年(1249年)1月5日、正二位に昇叙。同年12月24日、権大納言に任ぜられる。
  • 建長3年(1251年)1月22日、按察使を兼ねる。
  • 正元元年(1259年)、大納言に転正したか。
  • 文永7年(1270年)1月21日、息男である三位中将経良を参議に任じるために大納言を辞した。
  • 建治元年(1275年)2月21日、母の喪に服す。
  • 建治2年(1276年)12月23日、父基良が薨去。
  • 弘安3年(1280年)3月28日、兵部卿に任ぜられる。
  • 弘安8年(1285年)3月6日、従一位に叙せられ兵部卿を辞した[2]
  • 弘安10年(1287年)7月2日、所労のため出家し、同月4日、薨去。

系譜

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脚注

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  1. ^ 「二条良教」とする場合もあるが、二条教良と混同しているのではないかと考えられる。二条教良は関白二条良実の子であるが、良教は近衛家庶流の出身であり、良教の父基良も「葉川殿」と称されたことはあっても「二条」と称されたことはない。生きた時代が重なっていること、共に従一位に叙せられていることなどが混同の理由ではないかと考えられる。
  2. ^ 『尊卑分脈』によると、従一位に叙せられたのは亀山院後宇多天皇の笛の師であったためという。同時期に従一位に叙せられた他の公卿と異なり、准大臣宣下や内大臣昇進には至らなかった。忠良の子孫では従一位に叙せられた唯一の公卿である。

参考文献

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  • 公卿補任黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館新訂増補国史大系〉。 ※嘉禎2年(1236年)に良教が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』 黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。 ※「藤原良教」、「衣笠家良」、「九条基家」の項。
  • 『和歌史 : 万葉から現代短歌まで』和泉書院〈和泉選書〉、1985年。ISBN 4-87088-152-7
  • 野中和孝・山縣正幸「衣笠家良の生涯(上) : 生誕から内大臣致仕まで」『活水論文集』第46号、活水女子大学・短期大学、2003年3月。CRID 1520009408865165184ISSN 1347-2305