粟田口良教
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時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 元仁元年(1224年) |
死没 | 弘安10年7月4日(1287年8月14日) |
別名 | 藤原良教 |
官位 | 従一位・大納言、按察使、兵部卿 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇 |
氏族 | 近衛家庶流粟田口家 |
父母 | 父:藤原基良、母:藤原隆雅娘 |
兄弟 | 良教、藤原房教、藤井教嗣 |
子 | 藤井嗣房、長教、教経、経良 |
粟田口 良教(あわたぐち よしのり)は、鎌倉時代中期の公卿。藤原良教とも[1]。権大納言・藤原基良の子。官位は従一位・大納言、按察使、兵部卿。
経歴
[編集]- 安貞2年(1228年)8月21日、叙爵。同年9月6日、侍従に任ぜられ、12月9日には従五位上に昇叙、12月14日には禁色を許された。
- 寛喜3年(1231年)10月20日、正五位上に昇叙。
- 貞永元年(1232年)1月30日、遠江権介を兼ねる。同年12月24日、従四位下に昇叙し侍従は元の如し。
- 天福元年(1233年)12月12日、従四位上に昇叙。
- 嘉禎元年(1235年)10月8日、正四位下に昇叙。
- 嘉禎2年(1236年)6月13日、従三位に叙される。侍従は元の如し。
- 嘉禎3年(1237年)1月29日、右中将に任ぜられる。
- 嘉禎4年(1238年)1月5日、正三位に昇叙。同月22日、駿河権守を兼ねる。
- 仁治2年(1241年)6月7日、参議に任ぜられ、右中将と駿河権守は元の如し。同年10月13日、左衛門督に転じる。
- 仁治3年(1242年)3月7日、権中納言に任ぜられ、左衛門督は元の如し。同年7月に左衛門督を辞したか。
- 寛元元年(1243年)2月2日、帯剣を許される。
- 寛元2年(1244年)6月13日、中納言に転正。
- 建長元年(1249年)1月5日、正二位に昇叙。同年12月24日、権大納言に任ぜられる。
- 建長3年(1251年)1月22日、按察使を兼ねる。
- 正元元年(1259年)、大納言に転正したか。
- 文永7年(1270年)1月21日、息男である三位中将経良を参議に任じるために大納言を辞した。
- 建治元年(1275年)2月21日、母の喪に服す。
- 建治2年(1276年)12月23日、父基良が薨去。
- 弘安3年(1280年)3月28日、兵部卿に任ぜられる。
- 弘安8年(1285年)3月6日、従一位に叙せられ兵部卿を辞した[2]。
- 弘安10年(1287年)7月2日、所労のため出家し、同月4日、薨去。