粟田諸姉
粟田 諸姉 あわた の もろね | |
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出生 |
不詳 |
死去 |
不詳 |
配偶者 | 藤原真従 |
淳仁天皇 |
粟田 諸姉(あわた の もろね、生没年不詳)は、奈良時代の女性。藤原真従の妻で、没後に淳仁天皇の妃となった。位階は従五位下。
経歴
[編集]淳仁天皇の後宮における号名は不明。ただし、天皇の即位に際して従五位下に叙せられているため、位階から想定して、「嬪」(ひん、皇后・妃・夫人に次ぐ地位で四位・五位以上)であったのではないか、と坂元義種は述べている。
出自である粟田朝臣は『新撰姓氏録』によると、和珥氏系統の氏族であり、一族には大宝律令撰定・遣唐使で有名な粟田真人がいた。
「諸姉」という名前も、大宅氏・藤原氏に存在し、「橘諸兄」のように年長者としての尊敬を受けることを願ったものであり、当時としては珍しいものではなかった。
諸姉は、当初藤原仲麻呂の長男、藤原真従の妻になったが、『続日本紀』巻十七によると、749年(天平21年4月)に正六位下から従五位下に昇格したのち[1]、真従の存在は記録から消滅してしまい、彼はこの直後に亡くなったものと思われる。しかし、諸姉は夫の死後も仲麻呂の邸宅である田村第にそのまま残った。彼女が粟田真人の縁者であり、藤原仲麻呂はその知名度・経済力を利用しようとした可能性が考えられる。
やがて、仲麻呂のすすめで、舎人親王の第七子である大炊王の妻となり[2]、仲麻呂の婚姻政策に加担することになる。『続紀』巻第二十、二十一の語る、757年(天平勝宝9歳 4月)の道祖王の廃太子[3]による大炊王の立太子[4]の時に大炊王は田村第から迎えられており、王と仲麻呂の関係は深いものだった。
淳仁天皇は、仲麻呂夫妻を父母と慕い、仲麻呂の子を「はらから」と呼び、彼に「藤原恵美」の氏と「押勝」の名を与え、「尚舅」とも呼んだ[5]。そのまま順調に行けば、諸姉が皇后になることが予想されていた。
一族の粟田奈勢麻呂(あわたのさせまろ)は『続紀』巻第二十によると、757年(天平勝宝9歳5月)には従五位上から正五位下になっているが[6]、巻第二十四では、762年(天平宝字6年)に従四位下に昇進している[7]。
粟田人成は『続紀』巻第二十三では、761年(天平宝字5年1月)に従下位下から従五位上に昇進し[8]、同天平宝字5年10月に仁部大輔(民部大輔)に叙任されている[9]。巻第二十四では、763年(天平宝字7年1月)には右中弁に任じられており[10]、巻第二十五では764年(天平宝字8年)、相模守に任じられており、この時一族の従五位下の粟田黒麻呂も左京亮に任命されている[11]。同年9月の藤原仲麻呂の乱に連座したためか、位階を剥奪されたようで、『続紀』巻第三十一によると、771年(宝亀2年11月)に無位から本位従五位下に復した、という[12]。
『続紀』巻三十二によると、女官の粟田深身(あわた ふかみ)も772年に無位から本位従四位下に復位している[13]。
これらは、諸姉の存在と関係があるのではないか、と坂元義種は述べている。
諸姉の存在そのものは、天平宝字2年以後、語られておらず、淳仁天皇の淡路配流後も、母親の当麻山背は同道しているが[14]、諸姉の存在は記載されていない。
脚注
[編集]- ^ 『続日本紀』聖武天皇 天平21年4月1日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 即位前紀条
- ^ 『続日本紀』孝謙天皇 天平勝宝9歳3月29日条
- ^ 『続日本紀』孝謙天皇 天平勝宝9歳4月4日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字2年8月25日条
- ^ 『続日本紀』孝謙天皇 天平勝宝9歳5月8日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字6年1月4日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字5年1月2日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字5年10月1日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字7年1月9日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年1月21日条
- ^ 『続日本紀』光仁天皇 宝亀2年11月28日条
- ^ 『続日本紀』光仁天皇 宝亀3年1月3日条
- ^ 『続日本紀』廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年10月9日条
参考資料
[編集]- 『歴史と旅臨時増刊55 歴代皇后総覧』(秋田書店、1993年) p158 - p159、文:坂元義種
- 『日本の歴史3 奈良の都』、青木和夫:著、中央公論社、1965年
- 『続日本紀』3・4 新日本古典文学大系14・15 岩波書店、1992年、1995年
- 『続日本紀』全現代語訳(中)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年