粟野吉州
引退 | |||||||||||||||
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国籍 | 日本 | ||||||||||||||
生年月日 | 1942年11月10日(82歳) | ||||||||||||||
出身地 | 静岡県 | ||||||||||||||
経歴 | |||||||||||||||
日本鋼管 | |||||||||||||||
日本鉱業[要出典] | |||||||||||||||
代表歴 | |||||||||||||||
キャップ | 日本 1963-1970 | ||||||||||||||
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粟野 吉州(あわの よしくに、1942年11月10日[1] - )は、日本の元バスケットボール選手。1963年世界選手権日本代表。静岡県出身。𠮷州とも書く。
略歴・人物
[編集]1961年、静岡県立静岡高等学校卒業[2]。高校時代、1958年、インターハイは、主将木内貴史(旧姓増田)らを擁して臨み決勝まで勝ち上がったが、京都の山城を相手に接戦の末敗れ、優勝を逃した[3]。翌、1959年も準優勝にとどまった[3]。1960年、1年から全国を経験してきた粟野吉洲が主将を務めた。全国大会の二回戦、倉敷工と対戦した粟野は、チャージングを誘ったプレーで、相手と激しく接触、あおむけに倒れ頭を強打。試合には勝ったものの、直後の準々決勝、中大杉並戦は途中欠場。主軸を欠いたチームは善戦及ばず敗れた[3]。国体では準優勝[3]。静岡高校は、粟野の卒業後の1962年、秋田国体で優勝を果たした[3]。
1961年、東京教育大に入学。同期の安達宣郎とともに1年から主力となり、3年で東京五輪の強化選手[3]。代表にこそ選ばれなかったが、全日本の一員として、ブラジルで開かれた1963年世界選手権に出場し、5試合出場15得点を記録した[3]。
1965年、日本鋼管入社。1965年夏季ユニバーシアード、1967年夏季ユニバーシアードと国際舞台で活躍[3]。1970年にタイ・バンコクで開かれた1970年アジア競技大会では主将としてチームを率い、3位となり銅メダルを獲得した[3]。
日本鋼管では、1970年、1971年の全日本選手権(天皇杯)で優勝[4]。八年間の現役生活で3回の天皇杯に貢献した[3]。1973年、現役を引退。その後はコーチを務め、コーチ時代には、国交が回復したばかりの中国にも遠征[3]。1974年、1975年に日本鋼管監督としてチームを指揮した[4]。
経歴
[編集]- 選手歴
- 静岡高校 - 東京教育大 - 日本鋼管
日本代表歴
[編集]- 1963年世界選手権
脚注
[編集]関連項目
[編集]出典
[編集]- Yoshikuni Awano - FIBA.com