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長島城 (紀伊国)

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長島城
三重県
本丸にある石碑
本丸にある石碑
別名 岡山城、城腰城、梅谷長島城、紀伊長島城
城郭構造 山城
築城主 加藤甚左衛門
築城年 至徳元年(1384年
主な城主 加藤甚五郎、加藤甚左衛門
廃城年 天正4年(1576年
遺構 曲輪、石碑、説明版
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度12分2.2秒 東経136度20分0秒 / 北緯34.200611度 東経136.33333度 / 34.200611; 136.33333
地図
紀伊長島城の位置(三重県内)
紀伊長島城
紀伊長島城
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長島城(ながしまじょう)は、志摩国英虞郡(のち紀伊国牟婁郡)長島[1](現在の三重県北牟婁郡紀北町)にあった日本の城山城)。

地理

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標高146mの山城であり、比高差は144m。紀北町指定史跡に指定されている。

歴史

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南北朝時代

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至徳元年(1384年北畠氏の家臣であった加藤甚左衛門が築城した。応永2年(1395年)に奥村氏尾鷲紀伊長島に向かって攻めてきたため、加藤甚左衛門は尾鷲で迎え撃ったが内通者がいたため敗れた。その後、加藤甚左衛門は自刃した。

戦国時代

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天正4年(1576年織田信雄が5代目の城主であった加藤甚五郎奥村氏熊野征伐を命じた。 三木城(現在の三重県尾鷲市)を攻め落とした堀内氏善は少しの兵力を残して新宮に帰ったが、それを狙って加藤甚五郎は奥村氏と三木城を攻め落とし、在城した。

これを知った堀内氏善天正4年(1576年)に2,000の兵力を率いて夜討ちをかけた。加藤甚五郎の軍勢は多数の死傷者を出しながらも何とか本拠であるこの城に戻ったが、奥村氏の裏切りにより更に不利な状況となり、数ヶ月間戦った後、紀伊長島城は焼失し、加藤甚五郎は自刃した。54歳であったといわれている。

昭和時代

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太平洋戦争の時に軍事監視所が置かれていた。

現代

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曲輪などの遺構が整備されており、本丸跡地にはベンチもある。台には携帯電話の通信施設が置かれている。

交通

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脚注

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  1. ^ 桃山時代に志摩国の東端を除く大半を、紀伊新宮城主の堀内氏善と伊勢松ヶ島城主の織田信雄が荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入した。「角川日本地名大辞典 24 三重県」

関連項目

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外部リンク

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