コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

紀元前10世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紀元前926年から転送)
千年紀: 紀元前1千年紀
世紀: 前11世紀 - 紀元前10世紀 - 前9世紀
ソロモン王ヘブライ人の王国に最盛期をもたらし、その知恵は後世高く評価された。画像はジェームズ・ティソによる歴史画「エルサレム神殿を奉献するソロモン王」(マンハッタンのユダヤ人博物館英語版蔵)。
シバの女王。シバはイエメンエチオピアに相当すると考えられ、この地と地中海東岸が紅海貿易で結ばれていたことを示す。 画像はピエロ・デラ・フランチェスカの「ソロモン王を訪問するシバの女王」(アレッツォの聖フランチェスコ聖堂フレスコ壁画)。
エジプト第21王朝の王プスセンネス1世。下エジプトのタニスを都とした第21王朝でこの王は半世紀近い治世を営んだ。またこの王の墓は古代エジプトを通じて唯一の未盗掘王墓だったことでも知られる。
ルリスタン青銅器英語版。紀元前10世紀頃からイラン西部で発達した青銅器で、動物文様を組み合わせた複雑な意匠で知られている。画像はロサンゼルス・カウンティ美術館蔵の人面有翼獣の青銅器。

(きげんぜんじっせいき)は、西暦による紀元前1000年から紀元前901年までの100年間を指す世紀

出来事

[編集]

紀元前1000年代

[編集]

紀元前990年代

[編集]

紀元前980年代

[編集]
  • 紀元前985年頃 - 周の昭王が南方巡狩で消息不明になる(との戦いで死亡した)。穆王が即位。

紀元前970年代

[編集]

紀元前950年代

[編集]

紀元前940年代

[編集]

紀元前930年代

[編集]

紀元前920年代

[編集]
  • 紀元前928年頃 - 周の共王が密康公を滅ぼす。
  • 紀元前925年頃 - エジプト王シェションク1世によるエルサレム神殿の略奪。

紀元前910年代

[編集]
  • 紀元前911年 - アッシリア王アダド・ニラリ2世の即位。この時期から「新アッシリア」と呼ばれる。
    • アダド・ニラリ2世の治世から紀元前7世紀半ばのアッシュルバニパルの治世までの完全なリンム表(一年任期で交代するリンム職の名前を記したリスト)が残されており、古代オリエント史において正確に編年を復元できる最初の年はアダド・ニラリ2世の治世第1年(紀元前911年)である。
  • 弥生時代の始まりが紀元前10世紀である可能性がある。国立歴史民俗博物館の研究グループが、九州北部の遺跡から出土した弥生時代早期の土器に付着していた煮焦げなどの炭化物の放射性炭素年代測定の結果、通説より500年遡ることが裏付けられたと発表した。

伝説のできごと

[編集]
惣宗寺(佐野厄除け大師、栃木県佐野市)の境内にある’’’菊慈童’’’の像、を飲み、不老長寿と伝わる。紀元前10世紀 – 穆王に仕えた。
  • 紀元前10世紀 - 周の穆王が征西の際に神々が住むとされた崑崙山に立ち寄って西王母に会い、後に王に従って西王母が入朝した(『穆天子伝』)。
  • 紀元前10世紀 - 周の穆王に仕えた侍童(菊慈童)が罪あって南陽郡の酈県に流され、その地で菊の露を飲み不老不死の仙童となったという[† 1]
  • 紀元前10世紀 - エチオピアの女王マケダ(シバの女王)はソロモンの知恵の噂を聞き、その支配下のエルサレムを訪問。その滞在中に二人は結ばれ、帰国した女王は一人息子バイナ・レフケム(通称はメネリク1世)を生んだ。このソロモン王の血を引いた人物から始まるエチオピアの王朝がソロモン朝英語版である(『ケブラ・ナガスト』)。
  • 紀元前10世紀 - ソロモンがエルサレム神殿(ソロモン神殿)を築いた時、旧約聖書の記述では近隣のティルス(ツロ)王であるヒラムが木材や建築技術者を派遣し支援したという。しかしヒラム自らが建築家の棟梁であったという説があり、配下にあった建築家集団を「親方」「職人」「徒弟」からなる集団に分け、それぞれに秘密の合言葉や符牒を定めて仕事に当たらせたという。このことが起源となって成立したのが秘密結社で名高いフリーメイソンである(フリーメイソンのヒラム起原伝説)。

人物

[編集]

ギリシア

[編集]

オリエント

[編集]

大陸(現在の中国)

[編集]
  • 康王(? - 前993年?) - 王朝第3代王(在位前1002年? - 前993年?)
  • 昭王(? - 前985年?) - 周王朝第4代王(在位前993年? - 前985年?)
  • 穆王(? - 前940年?) - 周王朝第5代王(在位前985年? - 前940年?)
  • 共王(? - 前903年?) - 周王朝第6代王(在位前940年? - 前903年?)

技術・社会

[編集]
  • 日本列島では、縄文時代の晩期には北九州・近畿にまで水田農耕が定着していったとされる。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 原典は六朝時代の梁の呉均による志怪小説『続斉諧記』。観世流の演目「菊慈童」などに発展。

出典

[編集]
  1. ^ 藤井 2007, p. 57.
  2. ^ a b 藤井 2007, p. 58.

参考文献

[編集]
  • 山崎元一小西正捷 編『世界歴史大系 南アジア史1 ─先史・古代─』 1巻、山川出版社、2007年6月10日。ISBN 978-4634462083 
    • 藤井正人「第2章 ヴェーダ時代の宗教・政治・社会」、57-85頁。 

関連項目

[編集]