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紀男人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
紀 男人
時代 飛鳥時代 - 奈良時代
生誕 天武天皇11年(682年[1]
死没 天平10年10月30日738年12月15日
別名 雄人
官位 正四位下右大弁
主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 紀朝臣
父母 父:紀麻呂
兄弟 宿奈麻呂、男人宇美
奈賀岐娘
家守、兼貞、家継
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紀 男人(き の おひと)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は雄人とも記される。大納言紀麻呂の子。官位正四位下右大弁

経歴

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慶雲2年(705年従六位下から四階の昇叙により従五位下となる。慶雲4年(707年文武天皇大葬の際に造御竈司を務める。元明朝の和銅4年(711年)には平城宮造営のための諸国からの役民で逃亡する者が多かったことから、石上豊庭らと共に兵庫将軍に任命され、衛兵所を仮設して兵庫を守衛した。和銅5年(712年)従五位上。

霊亀3年(717年正五位下養老2年(718年)正五位上、養老7年(723年従四位下と、元正朝では順調に昇進する。またこの間の養老5年(721年)には、佐為王山上憶良らの文人と共に、退庁後は東宮・首皇子(のちの聖武天皇)の下に仕えて学芸の教育を行うよう命じられた[2]

聖武朝でも、天平3年(731年)従四位上、天平8年(736年正四位下と累進し、大宰大弐右大弁等を歴任した。天平10年(738年)10月30日任地の九州にて卒去享年57。最終官位は大宰大弐正四位下。遺骨は骨送使の音博士・山背靺鞨により平城京に運ばれた[3]

人物

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大宰大弐在任中の天平2年(730年)に当時大宰帥であった大伴旅人の邸宅で開催された梅花の宴で詠んだ和歌が『万葉集』に入集している[4]。『懐風藻』にも漢詩作品3首が採録。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『懐風藻』における「享年五十七」の記載より逆算。
  2. ^ 『続日本紀』養老5年正月23日条
  3. ^ 『周防国正税帳』
  4. ^ a b 『万葉集』巻5-0815
  5. ^ a b 『続日本紀』延暦3年4月19日条
  6. ^ 尊卑分脈』、「紀氏系図」(『続群書類従』巻第168所収)
  7. ^ 高島正人『奈良時代諸氏族の研究』

参考文献

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