細井魚袋
細井 魚袋 (ほそい ぎょたい) | |
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誕生 |
細井 子之助(ほそい ねのすけ[1]) 1889年1月2日 千葉県君津郡巌根村大字高柳字大海道(現・木更津市高柳)[1] |
死没 |
1962年11月2日(73歳没) 千葉県木更津市 |
墓地 | 千葉県木更津市本郷[1] |
職業 | 歌人 |
言語 | 日本語 |
最終学歴 | 千葉県立木更津中学校(現・木更津高等学校) |
子供 | 細井孝三郎(歌人、高校教師) |
影響を受けたもの
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細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 1962年11月2日)は、日本の歌人。千葉県君津郡巌根村大字高柳字大海道(現・木更津市高柳)生まれ[1]。尾上柴舟に師事した。
生涯
[編集]1889年、農家の三男として生まれる。千葉県立木更津中学校(現・木更津高等学校)在学中の1909年ごろより尾上柴舟に師事。1911年3月に卒業。1913年ごろより君津郡役所に勤務する[1]。
1914年、尾上柴舟が歌誌『水甕』を創刊すると、これに参加。のちに主要同人となり、選者も務めた[1]。
1921年、朝鮮総督府への出向が決まり、朝鮮半島に渡る。1922年、病気で入院中に、同じ病院に入院していた市山盛雄(1897-1988)と出会った。翌1923年、京城(現・ソウル)にて市山とともに歌誌『真人』(しんじん)を創刊。また、『朝鮮公論』、『京城日報』などの歌欄の選者も務め、朝鮮歌壇の振興に努めた[1]。
1924年、魚袋は内務省へ転勤となり、東京に転居した。歌誌『真人』は、市山が京城で発行を継続した[1]。
1926年からは東京の本所に発行地を移す。負債を重ね、田畑を売りながら発行を続けたが、1943年、物資不足のなか、尾上柴舟の希望もあり『水甕』と合併した[2]。
第二次世界大戦の終結後、『真人』は1947年に木更津で復刊され、魚袋の晩年まで刊行が続いた。息子の細井孝三郎(1919-1975)も歌人となり、木更津高等学校の教員を務めながら同誌の編集を助けた[3]。
1952年制定の木更津市立岩根中学校校歌の作詞は魚袋が手掛けている[4]。また、1958年には木更津市立岩根小学校の校歌を作詞した[1]。
1957年11月2日、木更津の太田山公園に魚袋の短歌を刻んだ歌碑が立てられた。歌碑の短歌は、「秋風をまなこにためて坐りけりしろくかわける石の上に我は」[5]。
君津病院(現・君津中央病院)に入院中だった1962年11月2日、急性胃潰瘍のため73歳で逝去した[1]。
主な著書
[編集]- 五十年 (現代短歌叢書 第10巻、長谷川書房、1952年)
- 細井魚袋歌集 (魚袋歌集刊行会編、長谷川書房、1983年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 片山恵美子『歌人魚袋』(短歌新聞社、1987年)
- 「細井魚袋」田辺弥太郎『房総歌人伝』(単独舎、1989年)
- 「細井魚袋」新井章『房総の歌人群像 II』(短歌新聞社、1990年)